人間学を学ぶ雑誌「致知」の読者による勉強会「稚内木鶏クラブ」の七月例会を開催しました。
今月号の特集は「生きる力」。
寺に生まれながら寺を嫌い、会社に就職した若き長野哲明青年は、研修で社を訪れた鎌倉の古刹の管長の話に嫌気が差してしまいます。社の命令で老師にインタビューをせよ、と言われたことで彼は老師に問答をふっかけます。
「私には仏心とやらが全く理解できません」
「お前さんは幾つじゃ」
「二十五歳です」
「二十五歳か、それでは仏心は分からん」
「どうしてですか」
「お前さん、わしの話をどこを向いて聞いておった?」
「先生の御顔を見つめて聞いておりました」
「そうか。わしの面の皮一枚しか見ておらなかったのか。それでは仏心は分からん。人間の目に見えぬものを見るんじゃ」
「そんなもの見えるわけがないじゃないですか」
…老師は真顔で言った。「わしにはお前さんが一生は一回しかないことを意識して生きているとは思えん」
「一生は一回しかないなんてことは小学生でも知っていますよ」
老師は青年を見据えてこう言った。「ほう、そうか。それならわしが質問しよう。一生は一回しかないな。もう二度と人間に生まれることはないな」「はい」「じゃ、聞くぞ。その二度とない人生をお前さんはどういう命題を持っていきていくのか。お前さんの人生のテーマを言うてみい!」
青年は息が詰まった。そんなことは考えてもみなかった。
「一生は一回しかないというのに、二十五歳にもなって人生のテーマがないとはな。古人は一生一道使命に燃えて生きろ、と言った。子名都は、お前さんは一体何に命を使っておるかということじゃ。さあ言え、言ってみよ!」
老師の気魄に青年はうつむくばかり。数日後青年は、「そうだ、自分はあの老師のような人間になりたい」と決意し、以後の人生を禅僧として生ききった。
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この特集記事を読んで、参加者がそれぞれの考えるところを語り合いました。
私が感じたことは、「人はいつでも心のスイッチを入れることができるのだが、しばしばその機会をみすみす逃しているのだなあ」ということ。
記事の中の長野青年は優れた老師からの言葉によって人生の意味に触れ、そのことによって人生に目覚めました。
何も偉い高僧の話でなくても、人との出会いとちょっとした会話の中にさえも心のスイッチが入るような言葉があるものです。
しかし多くの場合、それを感じ逃してしまっている。親の小言でわが身を直せるようになったのは幾つになったときだったか。
妻からの一言を素直に聞けているだろうか。幼子からの素朴な質問に心が動くことはありますか。頑なな心はどうしたら耕されるのでしょう。その言葉を耳は聞いても心は何も感じていないのではないか。
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今日の参加者の中には、「娘からお父さんはどんな仕事をしているの?」という一言で目覚めた人がいたり、学生の頃に先生からの「努力しても報われないことはある。しかし努力しなければ報われることはない」という言葉を聞いて人生が変わった、という人がいました。
人はいつでも変わりうる、その言葉を耳ではなく心が聞き逃さなければ。
今日も心洗われる良いお話が満載で良い心の洗濯ができました。今日の一日に感謝です。