【三棟のうちのA棟】
稚内の奥地恵北地区にある「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」を見学してきました。
この施設は無線中継所として北方水域における国防の監視・通信拠点でした。建物の完成は昭和4年のことで、元々の目的は対ロシア戦略の一環として無線の傍受が行われたようですが、昭和16年12月の開戦にあたっては真珠湾攻撃を行う暗号として「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」が送信されたときに、命令電文をこちらからも北方の艦船へ向けて送信したと言われています。
ちなみに「ニイタカヤマ」とは「新高山」で、当時日本が統治していた台湾の最高峰玉山のことで、高さは3,997メートルあって富士山よりも高い日本最高峰だった山のことで、暗号に使われました。
煉瓦造りの三棟からなる建物は通称「稚内赤レンガ通信所」と呼ばれています。この三棟は一番大きいものから順に仮にA棟、B棟、C棟と呼ばれており、この他に地上高50メートルのトラス式アンテナと木造アンテナが建てられていました。
【望楼のあるB棟】
【修復がなされたC棟】
戦後はここにアメリカ軍が1972(昭和44)年まで駐留して、その後防衛庁管理を経て稚内市の管理となり今日に至っています。
現場を見にゆくとA棟とB棟は今はもう屋根の鉄板も剥がれ、部材も大きく崩落しており、立ち入るのはとても危険な状況。
それを稚内市内の歴史的な建造物を保全・利活用したいという市民の機運が盛り上がり、「稚内市歴史・まち研究会」が立ち上がって、保全活用に向けた活動を続けています。
その過程で、一番小さいC棟だけはこの会の働きかけによって、資材メーカーからの資材提供や板金組合がボランティア協力してくれるなどの尽力があって、復元を果たしました。今では施設見学の際の説明会場として使われています。
しかしC棟だけは保全が図られたものの、残念ですが他のA棟とB棟はここまで老朽化と崩落が進むともはや保存も利活用もかなり難しいことでしょう。
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稚内百年史によると、この施設では昭和20年3月17日に、硫黄島守備隊の栗林兵団の総攻撃決別電報を大本営に送ったのを、本体の稚内受信所が涙を押さえながら傍受したと記されているそうです。
ちなみに建物の煉瓦は札幌の菊水や江別で作られたものが国鉄天北線で運ばれて作られたのだとも。
稚内の数少ない歴史的建造物であると同時に、今では日本でも数少ない戦争遺跡と言えるでしょう。
どのように保全し利活用する術があるでしょうか。なんとも惜しくてたまりません。