先日、ある紙面に、残間さんの生き方について記事を書きました。
ガンが転移して余命を宣告された後には、行きたいところに行き、会いたい人に会い、身辺整理をして、最後には悔いのない人生を送る。
しかし、そんな自分なりの生き方を貫こうと思ったときには、周りの理解を得るのに時間がかかる。
つまり、ガンという病気は、ぎりぎりまで元気でいられて、旅立ちの準備ができるという意味で、『悪くない病気だ』と言える。
…とまあ、こういった趣旨の記事を書いたのです。
すると今日、ある中堅建設会社の社長から仕事上の電話があって、世間話をしているうちに、話題がその記事のことになりました。
「いやあ、小松さんの書いた記事にとても納得できて、妻とうなづきながら読ませてもらいました」
「どういうところが納得した点でしたか?」
「はい、僕はもしもガンになったとしても、特に治療はせずに放っておこう、という考え方なんです。ガンになったら仕方のないことだ、と。だから人間ドックも受けていないんですよ。そういう意味で、ガンを素直に受け入れた生き方に共感しました」
それを聞いて僕は、思わず「それは違います!」と叫びました。
「記事で書いた方は、一応手術を受けて治療をしたんです。しかしそれでも治癒が難しいと知って、初めてそこで身辺整理を始めたという事。そのうえ彼は、フリーランスの仕事だったので、そういう意味で仕事の整理もしやすかったということがあるでしょう。しかしあなたはそうではありませんよね」
「はい…」
「仮にも中堅の企業の社長ともなると、ご自身の健康問題は会社の存続に直結しますし、ひいては社員の生活に大きな影響を与えるじゃあありませんか。自分の健康がもつ意味をもっと自覚してもらわないと困ります!」
「あ…、はい、気を付けます」
その後は穏やかに仕事の話をして終わったのですが、改めて、彼に自分自身の健康の意味が理解してもらえたろうか、と不安になりました。
残間さんの、病気を受け入れた後の生き方や、旅立ちの時の迎え方、それ自身は「粋」という表現で語られるのかもしれません。
しかし、病気になることそのものも無条件に受け入れてよいわけではありません。
自分という存在と立場が、どれほど周りを支え、また支えられているか、という自覚をもつべきです。
まだ若いくて健康な時には、病気になったときのことがなかなか想像できないものです。
しかし、やはり幸せな日常の前提は健康である、ということを改めて噛みしめてほしい。
残った我々はその点の勘違いをしてはいけないと思います。
僕は、残間さんの分まで、充実した生を目指すつもりです。