先日ある会合で、昨年亡くなられた吉岡宏高先生と歩みを共にしてきた友人のSさんと飲む機会がありました。
故吉岡先生は、様々なご経歴のなか「炭鉄港(たんてつこう)」という北海道の産業の歴史を端的に言い表した表現で観光振興、地域振興をしようと活躍された方でした。
「炭鉄港」は、北海道の歴史の中でまず「炭鉱」、それを運んだ「鉄道」、そしてそれを積みだした「港湾」に着目して、それらの頭文字を合わせた新しい単語です。
相手が「タンテツコウ?何それ?」と言えばしめたもの、そこから説明が始まります。
聞きなれない単語は相手の興味を引く良いフックになるのです。
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吉岡先生は空知の三笠市のご出身で、お父さんも三笠の北炭幌内炭鉱の社員でした。
元々石炭政策の転換で、北海道から石炭産業がなくなったときに衰退してゆく空知の町を見て「北海道民は、これだけ歴史の一定の期間雇用と経済を支えてくれた空知地域に足を向けて寝られないはずだ」という思いがあって、それを空知・小樽・室蘭の地域連携で観光と言う形で価値を再発見するということに繋がったと言います。
平成元年には日本遺産にも認定され、またNPO法人炭鉱の記憶推進事業団が指定管理を受けて、一時火災で水没させた夕張石炭の歴史博物館も模擬坑道再建に向けて動き出しているときだっただけに、先生のご逝去は残念でなりません。
しかしながら実は私こと、直接吉岡先生と膝を交えてじっくりとまちづくりで意見を交わしたりお話をする機会はとうとうありませんでした。
心のどこかで、「共通の知り合いも多いし、いつか適切なタイミングでお会いできるのだろう」と高をくくっていたのですが、とうとうその日は訪れませんでした。
一緒に飲んだSさんに「もっと早く会えれば良かった」と言うと、「そうでしたか、てっきりお会いしたことくらいは会ったかと思っていました」と残念がってくれました。
「吉岡先生ってどんな方でしたか?」
「一言で言うと、とにかく前向きな方でした。以前別な会社に勤め炊いたときに経理のお仕事をしておられたとのことで経理は大好き。『頭が煮詰まった時に、経理の帳簿をつけて数字がぴったり合った時はストレスが吹っ飛ぶよ(笑)』と言ってました」
「北炭に務めていたお父様のこともあって石炭産業には関心が深かったんでしょうか」
「それもありましたけれど、まあとにかく何でもやってやろうという気持ちが強かったですね。
実は、お父さんが北炭に務めていたときに、坑道火災で坑道に注水をするという事故があったそうなんです。炭鉱では普通はそういう水没させた坑道はもう放棄されるんですが、北炭ではそこから水を抜いて再び行動を再建したのだそうです。
そしてご自身もNPO法人で管理運営に関わっている石炭の歴史博物館で模擬坑道が火災で注水するという事故があり、なんとかそれも再建に向けて動き出し始めていることがあって、『親子二代で注水した坑道を再建するなんてそうそうないだろ(笑)』と笑っておられましたよ」
亡くなられたのは突然のことで、体調不良を訴えられた1時間前にも周りに「ちょっとやりたいことがあるから今度集まって」という連絡が届いていたそうです。
地域活動としても残念ですが、私としてはそういう前向きなエネルギーを持った方にもっと早くお会いしておくべきだったと悔やまれます。
吉岡先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
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