北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「東京ミドル期シングルの衝撃」を読む ~ おひとり様社会はどこへ行く

2024-05-18 23:39:56 | 本の感想

 

 『東京ミドル期シングルの衝撃~ひとり社会の行方』という本を読みました。

 我が国が人口動態を俯瞰する中で、男女とも一人で暮らしているいわゆる「シングル」という生活形態に着目し、その背景を探りつつ、今後の課題を明らかにしようとする切り口です。

 発端は東京都新宿区での2013年の調査とフォーラムが始まりでした。

 ここでそれまであまり行政的課題の対象として注目されていなかったミドル期(35歳~64歳)の一人暮らし(「ミドル期シングル」と呼ぶ)について様々な側面から調査研究が始まりました。

 この人口の塊に対して本書は四つの側面があるとして、「当事者的関心」「市民セクターの関心」「行政的関心」「市場的関心」を揚げています。

 今のところ何の問題もなく暮らしているように見える「ミドル期シングル」の人たちですが、人口動態としては明らかに若くなるにしたがって増加の傾向が伺えます。

 歴史的な背景の一つは、1950年代から始まる「地方から都会への大量移動」であり、多くは結婚して「生殖家族」をなすまでの"状態"であったと指摘され、ほぼ問題のなかったフェーズです。

 次に登場したのが「女性死別高齢者」の出現です。背景は高齢人口そのものの増加や子供との同居の現象、男女の平均寿命の差、年金による経済的自立の高まりなどが指摘されますが、そろそろ女性の「低所得リスク」や「要介護リスク」などが注目されてきたころです。

 さらに次に登場したのが「未婚ミドル期の増加」というフェーズです。

 これはまず男性に顕著に現れて、2005年、2010年国勢調査でも大きくその数が増えています。

 ただ、単に未婚と言うだけでは、経済的にしっかりした未婚者もおり、課題は非正規雇用の低所得者問題であったり、あるいは親と同居する無配偶者が親亡き後のリスクをどうするかなどといった視点の調査が行われています。


 本書の視点は、これらの既往研究を踏まえつつ、ミドル期のシングル者における「親密圏」がどう変化しているのかに注目している点です。
 
 「親密圏」とは、日常的にお互いの活動を通じて当人の情報を共有できている人々で形成する人間関係の圏域として使われていて、かつては夫婦、親子という家族がそうでした。

 しかし、近代家族の解体や個人化が進んだ現代では家族システムの動揺が生じています。

 一人で暮らす人たちは、親密圏の機能をどのように調達して満たしているのか、またこれらの人々が一たび病気や介護に陥った際にどのように対処するのでしょうか。

 さらには日常の暮らしの充足感や満足感、幸福感は何によって得られているのでしょうか。


      ◆

 
 本書ではミドル期シングルという世代に着目したことによって、社会もさまざまに備えて行かなくてはならないことが示されています。

 面白かった点をいくつかご紹介します。

 まず東京で未婚のシングルが男女とも増えている背景ですが、これを東京圏郊外から東京区部に移った人たちがシングルのまま暮らしそのままミドル化しているという仮説を立てています。

 そしてこれを敷衍する形で、日本全体でも地方部から都会へ移動した人口が生殖家族をつくることなくシングルにとどまっているのではないかという仮説も上げられます。

 「人口移動によって出生率が低下する」という数多くの研究例がこれを明らかにしています。

 女性の社会進出が晩婚化を招き、→出生率が低下、→結婚や出産への価値観の変化→女性の社会進出が増加する、という少子化のメカニズムがあるのではないか、という指摘です。

 さらに後段では、男性の場合は未婚であってもそれは将来結婚するまでのモラトリアム期間であって、焦ることなく晩婚化が進んでいるのだと。

 一方女性の側も男性が結婚しないのであれば、女性の側も一人で暮らしてゆけるように社会進出という形で適応し、それらの結果として結婚しないままモラトリアム期間を超えてしまった男性が大量に発生し、男性が結婚しないのだから女性も結婚できないままシングルが続く、というループも存在しているのではないか、という指摘もありました。


 いずれにしても、かつては課題・問題のなかった人口カテゴリーのミドル期シングルですが、今後これが増加すると、やはり介護や日常の暮らしサポートをどこに求めるのか、ということが課題になってきます。

 それをただ「それにそなえた社会システムを作ろう」と唱えるだけではいささか不十分で、問題は、その担い手が地域の中で十分に確保できるのか、ということになります。

 行政の予算や個人の貯蓄だけの問題ではなく、労働供給量としての担い手がいなければ、いくらお金があってもサービスは受けられないのですから。

 
 私はこの本を読む前から、地域で暮らす住民は様々な問題を解決できる多能工でなくてはならない、と考えています。

 そしてシングルの増加によって生じる社会的需要に応える労働サービスに対しては、自らも参加して供給側に回るような取り組みが必要ではないかと思っています。

 
 我が国が高齢化社会を迎えることは自明ですが、その内訳にシングル者が増加するという要素を加えたときに、高齢化社会への行政としての対応はいかにあるべきか、一人ひとりの個人としての備えはいかにあるべきかを考えさせられます。

 ご一読をお勧めします。

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地域の仕事を子供たちに伝えよう

2024-05-15 22:03:53 | Weblog

 

 宗谷地域から網走方面へと車を走らせて南下してきました。

 途中にある雄武町で知り合いの建設業者さんを訪ねて、最近の話題を聞いてみると、「高校に働きかけて、町内の産業にどんなものがあってどんな仕事をしているか、を知ってもらう産業見本市のようなものを開催する予定になっています」とのこと。

 建設業に限らず、農林水産業や商業、果ては役場だっていまや若い担い手が不足して困っているのですが、案外そのことを地域の中で、特に学生さんたちに伝える手立てはないのが現実です。

 それがこちらの雄武町では、道庁さんの声掛けから始まって、始めは建設業の現状を高校生に知ってもらいたい、というお願いで行ったところが、逆に高校側から「建設業に限ってしまうよりはもっと地域の産業全般を知ってもらう取り組みの方が良いのではないか」という逆提案を受けて、町内の各産業全体での取り組みになったとのこと。

 最近は教育政策の一環として、地域に開かれた学校という取り組みが求められていると聞きますが、まさにこれは学校発案というよりは地域の声を学校が受け止める形での地域に開かれた教育の実践といえましょう。

 
      ◆


 話が盛り上がったところで相手の若社長さんから、「ところで小松さんは『コンストラクション甲子園』って聞いたことがありますか?」と訊かれました。

「あれ~、知りませんねえ」というと、「実は、高校生クイズ大会の形式で各高校代表に集結してもらって、建設や防災、環境などに特化した問題を解いてもらうという大会をやっているんです」とのこと。

 はじめはオホーツク、釧路、帯広の建設二世会が始めたのですが、これはいいということで道内各地に広がりを見せて、今年も準備を進めているのだそう。

「二人ペアで参加してもらうのですが、昨年の優勝ペアには沖縄旅行をプレゼントしましたよ」とのこと。

 前述の高校での町内産業見本市やコンストラクション甲子園など、仕事を学生という若者にもっと知ってもらおうという取り組みがいろいろと進められているようです。

 でもこれらも、仕事を知ってもらって担い手不足の現状を紹介するということは入っていても良いけれど、つまるところはそういう取り組みを通じて、大人たちが若い人たちを心配したり面倒を見てくれているという事が伝われば良いな、と思います。

 これから先、地元を出て進学する子たちも多いかもしれませんが、いざ就職というときやふとしたときに、(地元の暮らしは楽しかったな)とか(故郷で働いて貢献するのも楽しいかもしれない)という思い出ができてくれていれば、いつかどこかで地元に帰ってくる子たちが増えそうな気がします。

 仕事なんてどこにでもあるのですが、少しは学ばないとそれが見えないものなのです。

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宗谷方面に出張中

2024-05-14 20:27:15 | Weblog

 

 昨日から稚内方面へ出張中。

 記録を見たら稚内訪問は昨年の11月以来です。

 雨の中をひた走って、旭川で人に会い、士別、美深、稚内と北上してきました。

 今回改めて車を走らせてみて、幌富バイパスが天塩大橋から直結されていることに気がつきました。

 記録を見ると昨年9月に開通したとのことですが、秋に稚内を訪問したときは飛行機で移動したので気がつきませんでした。

 多くの先人たちが営々と進めてきたインフラ整備は着実に前に進んでいることを感じます。


 さてこうして行う道内の各地方行脚も、全道各地に行けるのはせいぜい年に2~3回といったところです。

 人に会えているときは当たり前のような気がしていますが、離れた人に会う機会は実は大事な時間だなあ、と思います。

 5月のこの季節は、各種団体の総会だったり要望大会だったりで、結構人が移動して歩いている時期なので、会えない人も結構いるのです。

 会ってお話ができた皆さんに感謝です。


      ◆


 一転して今朝は明るい日の出の晴れた一日になりました。

 久しぶりに宗谷岬まで車を走らせてみましたが、残念ながら樺太の島影は見られません。

 稚内~利尻・礼文の観光シーズンはなんといってもウニが解禁になる6月からなので、5月はまだ本格シーズンではありませんが、気の早いバスでの観光客がちらほら見られました。

 今年もたくさんの観光客が宗谷方面、利尻礼文の観光に訪れてくれることを期待したいところです。

 
 
   

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実家の春の草刈り

2024-05-11 23:09:11 | Weblog

 

 今日は朝から実家の草刈りに行ってきました。

 以前から「そろそろ草が伸びてきた」と言われていて、一度行かなくちゃと思っていたところ。

 実家の草刈りに行くのは初めてで、「以前はどうしていたの?」と訊くと、「ハサミでチョキチョキ切っていたけど三日くらいかかって腰が痛くてもうできない」とのこと。

 草刈りの場所は家の敷地と道路舗装の間の空間で、厳密に言うと実家の敷地ではないのですが、まさか役場に「道路敷地だから刈ってください」などと言えるものではありません。

 月曜日が草刈りゴミを集める日だというので、その前にはやらないといけないところでした。

 昨年、マキタの電動草刈り機を買ったのでそれがちょうど役に立つし、作業もずっと軽減されるでしょう。

 実際に草を刈ってみると、まだ柔らかい草なのでどんどん刈れます。

 しかし母の施工管理基準は案外厳しくて、「あんた、もっと字際から刈ってよ。残したらまたすぐ生えてくるからね。できるだけ短く刈りなさいよ」と半端な切り方をしていると叱られます。

 でもまあ、座り込んでハサミでチョキチョキやるよりは余程早く刈り取れます。

 作業モノは良い道具を買うことが一番効率に繋がりますので、安い道具で我慢しないようにしましょう。

     ◆

 草刈りの作業が終わったところで母が「買い物に行くときに押してゆくシルバーカーが壊れた」といいます。

「どれ、見せてみて」とチェックしてみました。

「ハンドルの持ち手が低くて肩が凝る」とか「ブレーキが壊れたから手を離すと転がって行っちゃう」と、仕方がないという感じ。

 どれどれ、と見てみると、持ち手の高さはちゃんと調節可能にできているので、一段階上げてやると、「ああ、いい感じだわ」とフィットした様子。

 ブレーキの方は、レバーを握るとワイヤーが引っ張られて金具がタイヤを押さえる仕掛けにになっているのですが、それが緩んでいただけの事でした。

 ははあ、とネジを緩めてワイヤーを引っ張ってそこでネジを締めるとそれだけでちゃんとタイヤが押さえられるようになりました。

「え? 直ったの? 壊れたんじゃないんだ」 
「自転車と同じような仕掛けだからワイヤーの調節で直ったよ」

 まあこういうことがだんだんわからなくなるのが老化です。

 できなくなったら、周りに聞いてくれれば良いのですがね。 

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「学校の金次郎像が売却される」という記事に接して思うこと

2024-05-09 23:35:20 | 報徳

 

 ネットのニュースに、「閉校した小学校の二宮金次郎像が入札で売却されることに」という記事がありました。

 元ネタは毎日新聞の記事で、売却されるのは兵庫県三木市で閉校した市立旧東吉川(ひがしよかわ)小学校に残されていた金次郎像。

 高さ100センチで重さは23キロ。まきを背負いながら(正しくは柴なのですが)本を読みながら歩くお馴染みのスタイルのものだそう。

 設置されたのは1959(昭和34)年とわかったそうですが経緯は不明とのこと。

 ニュースになったのは、一般には廃棄などで処分されていつのまにかなくなるのが、今回は市側が「移設(や処分)するにしても費用がかかるので、廃棄するのであれば購入した方に活用してほしいと考えた」というのが珍しいということでした。

 明治大正を通じて自らの勤行によって苦しい経済を立ち直らせるという報徳の教えは教育界にも影響を与え、学校報徳社などと言うのも作られた時代がありました。

 幼い金次郎像が普及したきっかけは、1929(昭和3)年の9~11月に開催された御大典奉祝名古屋博覧会だったと言われています。

 このときに愛知県岡崎市の石材業者が薪を背負った金次郎の石像を出品し、さらに小学校を対象にその建立を働きかけたといいます。

 これに続き、富山の鋳造業者も銅像の販売を始めたとのことで、ある意味民間商業者がこれらの像の普及に一役買ったというのは面白いことです。


      ◆


 戦争と報徳の関係ですが、実はアメリカ軍は戦時中から尊徳の存在に注目しており、B29からの撒かれた降伏勧状には損得を民主主義者として評価する文章も載せていました。

 戦後はアメリカ軍の民間情報教育局の新聞課長であったダニエル・インボーデン少佐が報徳を評価したことが知られています。

 彼は幼い金次郎の勤倹力行のみを強調した修身の教科書を「危険な学び方である」と批判し、成人後の報徳仕法に取り組んだ姿までも学ぶべきだと述べています。

 そして報徳の徳目の一つである「推譲」をして、「推譲には二つの道がある。一つは『おのれの将来ための貯蓄』であり、もう一つは『他の足らざるものに融通する他への推譲』である」とさえ述べています。

 現代の日本人よりもよほど報徳の考え方に通じているではありませんか。


 またある研究者によると、1950年代に金次郎の銅像が増えていることを指摘しています。

 その背景として、①復興が進み道が自由に使えるようになったこと、②1955(昭和30)年に二宮尊徳百年祭があったこと、などを揚げていますが、今日話題になった廃校になった小学校の銅像もまさにその頃におそらく父兄らによって寄付されたものでしょう。

 二宮金次郎の勤倹力行は第二次大戦に人々の心駆り出したというネガティブな側面を批判する向きもありますが、それにしても今や二宮尊徳のことが教育界でも取り上げられることが少なくなり、その銅像を見ても馳せる思いすら浮かんでこないというのが現状なのでしょう。

 いわゆる「徳目」や「規範」といったことを抽象論で語るよりも、それで疲弊した村々や人々の心を救済した歴史や事実を語ることのほうが教育的効果がありそうなものですが。

 さて、金次郎の銅像を買うほど関心のある方は現れるでしょうか。

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毎年恒例、両親の誕生会

2024-05-08 21:35:33 | Weblog

 

 私の両親はもう二人とも90歳を超えているのですが、二人の誕生日が5月の上旬で近いことから、GW中に集まれる身内で誕生会をしています。

 今年は5月6日に企画をしましたが、行きつけの和食のお店で会食をして軽くお酒を飲んでお花をプレゼントすることができました。

 当日集まれたのは私たち夫婦と弟一家、そして近くに住む娘たちの家族の合計11人。

 いろいろと無理の利く馴染のお店のおかげでいつもながら和やかな時間を過ごせました。

 GWの最後の日ということで集まるのには結構慌ただしくて、東京在住の弟たちは東京に帰る日を翌日の7日にしてくれたり、私たち夫婦は関西旅行の翌日になり、娘たち夫婦は開催の日の5時に丘珠空港に到着するという、日程を詰めながらの開催でした。

 もう足腰の弱ってきた両親は弟がお酒を飲まずに車で送り迎えを買って出てくれて送迎も万端。

 とはいえ、年々歳々親の衰えをひしひしと感じます。

 父に至っては、「ここのお店に来た記憶があるんだけど、いつ来たんだっけ?」と、このお店で毎年恒例の誕生会をしていることももう思い出せない様子。

 また参加できなかった身内もいるのですが、「これが我が一族全部なんだなあ」と誰がいないかも思い出せないよう。

 それでも二人とも内臓に目立った障害があるわけでもないので、ビールをグラスで一杯だけ飲んで、出されたお料理はそれなりに楽しんでもくれました。

 だんだん親の介護の苦労話や死別の話を多く聞く年齢になってきました。

 淡々と続くように感じられる今日一日を大切にしたいものです。   

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今回の旅行の総括 ~ 今までとは違う点三つのスタイル

2024-05-06 23:10:09 | Weblog

 

 約一週間にわたる関西の旅ですが、今までとはちょっと違うアプローチを試みました。

 一つ目は、移動にレンタカーではなく公共交通を使ったこと。

 関西は鉄道やバスが充実しているので、下手にレンタカーを借りるよりも早くて便利で安価に移動ができると考えました。

 結果的に、一週間の移動のための交通費は一人1万円ほどで済んだ勘定です。

 二人で2万円であれば、レンタカーを借りるよりもずっと安く済みました。

 そのために逆に歩く歩数が増えて足が披露することにはなりましたがそれも健康的な側面と思えば、都会の観光は公共交通や特にバスを上手に使えば安上がりになりますね。


      ◆


 二つ目は、連泊のホテルを作ったことです。

 今回は初日こそ1泊でしたが、二日目から3泊のホテルと、五日目からはホテルで2泊とする行程でした。

 そうすることで荷物をまとめたりそれを持って移動する手間をだいぶ省くことができて身軽な観光ができました。

 ただその際のホテルは狭い部屋での連泊はちょっと疲れるので、少し高くても部屋が大きめのところに泊まる方が良いと改めて思いました。

 以前友人が「退職して時間が取れたら、国内を旅行するのに一つの町でウィークリーマンションを借りて、そこを拠点に10日間くらい過ごして周辺を隈なく敢行して歩きたい」と言っていましたが、同じところに何泊もすることの効能を感じました。

 
      ◆


 三つめは、連日予定を作ってスケジュールを忙しくするのではなく、何も予定を立てない日を二日間作ったこと。

 これによって、朝の疲れの度合いや現地へ行ってこそ行ってみたくなる観光地をそこで決めるという柔軟な旅ができました。

 今回は、手塚治虫記念館やあべのハルカスなどを思いついて入れてみましたが、ゆとりのある旅になって気持ちに余裕ができました。

 
      ◆


 最後に、飛行機やホテル、USJや寄席など事前に予約したものはしっかりとプリントアウトして旅のしおりになるようなファイルを作ったことです。

 これは出張の時もそうしていますが、今回のように長旅になりホテルや訪問先などの予約記録が多い場合は特に役に立ちました。

 今では予約確認をQRコードを読み取ることで確認するところが多く、全部スマホでやろうと思えばやれる時代です。

 しかしそれでも通信や充電環境、不意のトラブルなどを考えると、やはりプリントして紙で持っているという安心感は格別なものがありました。

 昭和世代の旅のスタイルかもしれませんが、「旅のしおり」を作る癖をつけるようにするのはやはり良いことだと思いました。

 若い人はそんなことはしないんでしょうねえ(笑)。

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大阪観光メインイベントはNGK

2024-05-04 22:57:02 | Weblog

 

 さて今日は夕方に今回の旅のメインイベントの一つである、なんばグランド花月(通称:NGK)でお笑いの演芸を観るという予定を入れています。

 それまではまた大阪市内を見学という事で、午前は天王寺の超高層ビル"あべのハルカス"に行ってきました。

 あべのハルカスは、2014年に完成した高さ300mの超高層ビルで、2023年に開業した東京の麻布台ヒルズ森JPタワー(高さ 325m、東京都港区)に抜かれるまではわが国で一番高い高層ビルでした。

 建物は近鉄デパートが入る駅ビルで、地上60階建てで、58階~60階が有料展望台になっています。

 エレベーターは一度16階で乗り換えで、ここで展望台へのチケット(大人一人2千円)を買って展望台行きの高速エレベーターに乗り換えます。

 展望台のオフィシャルイメージキャラクターのWEST(旧ジャニーズWEST)の写真がゲストを迎えてくれました。

 周りにそれほど高いビルのないところでの地上60階からの展望はさすがにクラクラします。

 大阪の町の写真の真ん中に通天閣があるのですがわかりますか。

 
 展望台に一角には記念写真コーナーがあって、写真を撮ってくれて白黒の新聞記事風写真は無料。
 
 カラーとダウンロード権付きが有料(1500円)で、まあ良い記念になりました。


      ◆


 あべのハルカスからはなんばグランド花月まで歩くことにして、まずは通天閣目指して通天閣本通り商店街などをぶらぶら歩きます。

 このあたりは商店街と言うよりは、縁日通りの様な賑わい。

 飲食店も多いのですが、射的のお店が結構あったりしてまさにお祭りの縁日です。

 通天閣の展望台に上ろうとするお客さんがずらっと並んでいて大人気です。


      ◆


 そこからさらに商店街をずーっと歩いてなんばグランド花月に到着。

 こちらで16時からの公演を予約してあって、前半1時間が漫才で後半1時間が吉本新喜劇という構成。

 漫才には、ニューヨーク、アインシュタイン、ミキ、矢野兵頭、やすともなどの人気漫才師も数多く出て、テレビのバラエティとは違う話芸を楽しみました。

 すばやく会場のお客さんをひきつけて笑いを巻き起こす話芸はさすがのプロ。

 (上手だなあ)と思いながらげらげら笑っていました。

 笑いは幸せを招きますね。

 これも大阪の底力の一つなんだろうな、と感じました。

 

 

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バス一本で手塚治虫記念館へ行ってみる

2024-05-03 22:31:33 | Weblog

 

 さて、ホテルを阪神尼崎駅の近くに取った今日ですが、今日も予定を入れない余裕日程の一日でした。

 一夜明けて、さてどこへ行こうかと考えたときに、「そういえば宝塚ってここから近いよね。手塚治虫記念館へ行ってみようか」となったわけで。

 スマホの地図アプリで調べてみると、なんと阪神尼崎駅前からバス一本で手塚記念館のすぐ近くまで行けることが分かりました。

 バス停を見つけて折よく来た宝塚行きのバスに乗り込みましたが、予定では40分ほどで行けるはずの行程が、連休初日のお昼という事で高速道路までの道が大渋滞。

 予定の倍の80分ほどかかってようやく記念館にたどり着きました。

 思い返せば手塚治虫さんは、幼少期にここ宝塚に疎開していて多感な時期をここで過ごされたのでした。

 近くには宝塚大劇場もあり、おそらくは幼い手塚先生もここでのショーをご覧になったのでしょう。

 初期の名作「リボンの騎士」には、そうした女性が主人公になって男役で活躍をするという宝塚モチーフが生かされていると言えるでしょう。

 館内には、デビュー作にして大ヒットとなった「新寶島(しんたからじま)」など初期の原稿に始まって、子供心にノスタルジーを掻き立てられる鉄腕アトム、マグマ大使、ブラックジャック、そして未完のライフワークとなった「火の鳥」関連の資料が展示されていました。

 手塚先生は私のちょうど30年前に生まれていて、彼が青年期に力を注いだキャラクターはまさに私の年代のドンピシャ。

 小学校1年生に両親からもらったクリスマスプレゼントは、ビッグXの動くプラモデルだったことを今でも覚えています。

 
 今日の記念館は、ちょうど「火の鳥」の企画展が開催中で、セリフの部分に紙が貼られた直筆の原稿なども展示されていました。

 会場の映像コーナーでは、手塚先生に影響を受けた多くの漫画作家や文化人などへのインタビュー映像が流れていました。

 その中の一人である浦沢直樹さんが言っていたのは、「アトムとかジャングル大帝とか、今では巨匠と言うか漫画の神様の作品だ、と皆思っていると思いますが、あれを書いたときの手塚さんはまだ青年だったんです。だからまだうら若き青年が『世界を驚かしてやろう』と精魂を込めた作品だったんだということを思い出してほしい」と言っていたのが印象的でした。

 漫画のコマ割りからアニメーション化まで、およそ現代に通じる漫画文化を手探りで始めて、日本アニメの礎を築いた手塚治虫さん。

 胃がんのために亡くなったのは60歳の時でした。


       ◆


 あれだけ活躍された方でも、もう自分の方が歳上になっているのかと思うと複雑です。

 当時は平面での二次元キャラクターだったものが、今では立体化された人形で飾られていました。



 子供の頃のノスタルジーに浸れる時間でした。

 

 

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大阪の自慢はなんだろう ~ 日本一長い商店街は本当に長かった!

2024-05-03 22:21:36 | Weblog

 初めての関西旅行。

 昨日と今日は特に予定を入れずに、思ったところへ出かけてみようという余裕の二日にしました。
 
 時間がないから、と言って、予定をぎゅうぎゅうに詰めすぎると、予定をこなすための旅になってしまって、ハプニングや面白みが足りないかもしれないという過去のぎゅうぎゅう旅の反省です。

 そんなわけで予定のない昨日は、大阪城の目の前にある大阪市立歴史博物館を見学。

 博物館の窓からは大阪城が見渡せます。

 さてここでは大阪が歴史の視点で何を自慢したいのかを見てみようという魂胆でしたが、実はこの歴史博物館のすぐ近くに、日本書紀に書かれていて長く所在が分からなかった我が国最初の首都である「難波の宮(なにわのみや)」があったのだ、という事を知りました。

 難波の宮は西暦645年から793年まで、皇都としてまた天皇の御在所としてその役割を果たしました。

 前期と呼ばれる時期は、掘立て柱に草ぶき屋根だったものが、奈良時代になって平城京の副都となっ後期には基礎に石を用いその上に柱を立て屋根は瓦ぶき屋根になるなど、中国の影響を受けた形になったと言います。

 地割は後の藤原京や平城京の元になった形で、わが国最初の都が実は大阪だったとは初めて知りました。

 
 そこから時代を下ってくると、戦前戦後を通じて産業都市、商業都市として栄えた大阪は「大大阪時代」を迎えたとされ、西の都としての自慢の姿を垣間見ることができました。


      ◆


 そこを終えてから、「どこか大阪の商店街を見てみよう」ということになり、近くの天神橋通り商店街へ移動し、まずは大阪天満宮にお参り。

 大阪天満宮は実際に菅原道真公が九州に下られる際にお立ち寄りになられた場所とのことで、後に一夜にして7本の松が生えて光輝いた瑞祥があったことから天神様が祀られるようになったとのこと。

 スピリチュアルパワーにあふれた神社でした。

 さて、天神様のすぐ横をとにかく長く連なっているのが天神通り商店街。

 改めて調べてみると、全長2.6キロで、なんと日本一長い商店街でした。

 土のお店も元気に商売繁盛の様で、天神様のご利益と言うか、大阪の底力というか、パワーを感じました。

 パワーの感じついでに、串カツのお店を見つけて名物の串カツに昼飲みで旅の疲れを癒しました。
 
 やっぱり大阪、たいしたもんやで!

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