ご無沙汰です。
長き休暇にもかかわらず、以前と変わらぬ数字で来ていただいていました。
特に大変な最後ではなかったのですが、初めての喪主様となり
1月28日から右往左往でした。
ランチの時間にちょっと疲れた様子で7.8度の発熱があり、自室に戻ったあと、呼吸が少なくなり息を引き取ったそうです。
大好きだったホームのスタッフさんに看取られ、母は安心だったと思います。駆け付けた時『すみません』を言い続けるスタッフさん。なんのなんの信頼関係の篤かったお互いで慰め合いました。
不思議と涙は出ませんでした。
101歳まで生きてコロナ禍の影響からこのまま外出は出来ず、行きつけの好きなお寿司屋さんへも伺うことが叶わず、電池が切れたのでしょう。穏やかな表情でした。
豊科日赤病院で長時間待ち、遺体の引き取りは21時になりました。寒波による冷え込みの影響かお葬儀が混んでいるとのことで、結局2月1日火葬14時と決まりました。
さてかねてから母の希望により、安曇野市の自宅から東京多摩の菩提寺へお骨を届けました。骨壺は大きいし重いし、提げては行けません。ゆうパック(のみ)の宅配サービスがあることを知り、お寺さんに確認すると
『最近は時々あります。早めの日程で送ってくださいな』父が子供のころからのお付き合い。
厳しそうな真言宗にあって、いとも簡単に話が進み、結局2月9日納骨式から四十九日法要まで済ませてくださいました。母からの希望で永代供養の契約も済ませて、気持ちが軽くなりました。
立ち会ってくれた長男夫婦と、立川駅近くで美味しい中華料理「謝朋殿」で久しぶりのおいしい夕食を済ませ、東京の自宅へ送り出しました。
昨年12月29日に父の墓参に行ったのが、母を呼んでもらうことになったみたいです。
あの日と同じ青空でした。
翌朝、立川駅発8時24分は松本駅通過で穂高駅下車が可能です。
父は60歳で亡くなり60歳の母は一人であれもこれもしたのです。
私は子供が小さかったので、結局母は一人でここまでを済ませ、この後に続く市役所関係の煩雑な手続きもやっていたのだと思うと、締め付けられる思いを味わうことになる。
そしてその後自らが101歳まで生きるとは想像していなかっただろうし、人生は悲喜こもごも。