蔵くら日記

人生最後の数年を田舎暮らしで。2004年4月、実現のための行動開始!それは思わぬ展開でスタート・・。今では安曇野三昧

八ケ岳高原

2016年12月24日 | 安曇野を離れて
12月17日、予約していたコンサートへ。
むか~し行ったことがある「日本で一番高いJR野辺山駅」と、八ケ岳連峰の裾野に広がる高原が
八ケ岳高原。標高1100m。
その中にある八ケ岳高原音楽堂です。
サイトから拝借の全景


サイトから拝借の堂内


16:30分からの演奏会です。


見上げると


古澤巌さんとベルリンフィルのメンバー弦楽五重奏団との共演。
曲目の中にヴィヴァルディの『四季』から「秋」と「冬」があり、つられて来てしまいました。

私には高すぎる宿泊施設八ヶ岳高原ロッジ主催のコンサートでしたが、
宿は野辺山駅から車で10分ほどの「八ヶ岳グレイスホテル」
もちろん駅を基点に送迎してくれます。

ここは全室が八ケ岳を真正面に見る細長いカーブのホテルでした。
翌朝の窓から








温泉ではないが大浴場があり、朝食もメニューたっぷりで快適でした。
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田部井さん ありがとう

2016年12月17日 | トレッキング
いっぱいいっぱい学びました。
たくさんたくさん楽しませていただきました。



田園都市線に住む息子夫婦と会いながら、行ってきます。
2時半からですが、相当の混雑が予想されるでしょう。
しばらく時間をおいて入場しよう。

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ホッチキスの針

2016年12月16日 | 暮らしの積み木
ネットの収集記事から



「ホッチキス針は古紙の再生紙工程で支障ありません」

知りませんでした。
楽ですね
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ひょんな縁から登山再開

2016年12月14日 | トレッキング
高い山を断念し白内障をクリア後、初登山は光城山へトレッキング。
10月中旬だったかな?

途中で出会った男性が「ここで出会った方々で自然に輪が出来、Jさんを中心にランダムに楽しむ
山行チームがあります」と。
「下山後の駐車場に、〇〇岳の標高がナンバーの車があればJさんはまだここにいますよ」とも。

わ~ぉ、素敵ですねぇ

ちょっとお待ちしていたら会えました。
彼は毎日光城山を歩き、時々集合できたメンバーとトレッキングを楽しむリーダーさんです。
御年81才ですが、経験談を伺うと若い頃から北アルプスへは何度も来ておられた大ベテランでした。

電話番号を交換して11月の山行をお知らせいただいたのが
11月7日の『燕岳日帰り登山』でした

あらら、いきなり。これは私には無理ちゃうかなー。
ゆっくり登りますから大丈夫!と。

たしかに大丈夫でした。
その日揃ったメンバーは、きっと私に合わせてくださったのだと思います。
まず筋肉を柔らかくするためにストレッチを欠かさずに、とアドバイスを頂き、
毎日励んでおります。ハイ

来年を期待しよう。

付録
12月12日の光城山から
有明山


爺ケ岳と鹿島槍


安曇平と常念岳


ずずっとズーム常念岳



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田部井淳子さんお別れの会

2016年12月10日 | トレッキング
先日亡くなった田部井淳子さんの「お別れの会」が
12月18日14時半から16時、東京世田谷区の昭和女子大(出身校)のホールにて。

私は62才から登山を始め、高い山をやめても何かにつけ田部井さんをお手本にしている。
登山技術だけでなく、危機管理や危険に際して咄嗟の判断、楽しく登山する工夫、
山小屋での快適な過ごし方など。

白内障治療のお蔭で視力が回復したので、力量に合った登山を続けよう。
少しくらいしんどくても里山を歩けば元気になる・・・こんな老後を過ごそうと思う。


高校の同級生が、来年安曇野にやってくる約束が出来ている。
そうだ、木曽駒ヶ岳に登り「チョウノスケソウ」を見て、田部井さんを偲びたい。

もし可能なら富士山に登ろう。見るだけの山のつもりだったけど・・・
田部井さんが「東北の高校生を富士山に登らせよう」2012年から毎夏、東日本大震災の被災地福島の高校生を富士山の山頂に連れて行くという活動。
今年7月に彼らを見送られた最後の登山、せめて富士山7合目まででも。
指南書はある


本の中に懐かしい記事を見つける。
ネパールのエヴェレスト街道で見た「HAT-Jりんごプロジェクト」のリンゴの花。

農家のおじさんが「アップル」と嬉しそうに教えてくれました。


田部井さんの飛び切りの笑顔は勇気を下さる。
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緊急渡印・さようなら

2016年12月09日 | 海外旅日記
ホテルで待機中に、
バラナシ在住の女性から「23日午後3時にお亡くなられました」とメールが来た。
そして
「乗る飛行機がキャンセルになったことが、なんだか必然的だったように思えます」とも。

ご臨終には立ち会えませんでしたが、インドの空を見上げてお見送りができました。

そして
24日の葬送の様子も知らせてくれました。
「午前中プージャーには沢山の人が集まりました。
みんなの見送りの中、花で飾り付けられたトラックに乗ってサルナートなどを巡り、
火葬場へ向かいました。50人以上の人達が燃えていくのを最後まで見守りました。
ご住職の身体はすっかり燃え尽くされてただ真っ白な灰だけが残っているだけでした」

帰国後
24日に活動仲間だった方からメールをいただきました。
「地方紙に訃報記事が掲載された」と、現地の知人からの転送メールでした。

「地元紙が訃報記事を書くほどの存在感だったのだなとあらためて思っています」とも。

私も同じ思いです。
(12/13下記一部訂正と補足)
曹洞宗の僧侶からインドへ渡り40数年。
小さいながらお寺を建て、貧しい子供たちの日曜学校とお菓子やパンの施食行。
寄付を集めながら宗教・身分にかかわらず、寺子屋のような無料中学校を始めたのが1993年。
私がインド旅行2回目にご住職に出会ったのが1994年。
()

今では立派な中・高等学校になっています。
滞在中のある朝、懐かしい学校へお寺の小坊主君の登校について行きました。
相変わらず大勢の朝礼風景


校内を案内してくださった先生は「タウザンド○○ムニャムニャ」と説明。
私の知る限り解散前2013年は800名ほどだったので、またまた増えているのだ。

一緒に登校したノマージ君の教室の前にて


お寺にいる小坊主君は3名。
地方からやってきて、修行しお手伝いをしながら中学校へ通学させてもらっているのです。
彼らは食事も自分たちで作っていました。

【さようなら ご住職】
長年の愛車。2度の転倒から体力を落としてゆかれた。


2010年テレビ東京系列「世界を変える100人の日本人」の一人として紹介されました。

「教育は一生の宝となる」が口癖でした。

中学と高校が落ち着いたころから、
貧しい子供たちを対象に無料の小学校が、お寺の中の教室で始まりました。

年齢はバラバラ。

今も続いていました。
この子達に幸あれと祈る
コメント (2)
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