尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「まぼろしの市街戦」4K版でリバイバル

2018年11月01日 22時30分02秒 |  〃  (旧作外国映画)
 1966年のフランス映画、フィリップ・ド・ブロカ監督の「まぼろしの市街戦」が4Kデジタル修復版でリバイバルされている。(東京では新宿のケイズ・シネマ。)これはいわゆる「カルト・ムーヴィー」として語り継がれる傑作で、僕も昔何回か見ている。(一回はテレビかもしれない。)改めて久しぶりに見ても、やはり非常に面白かった。でも、これはちょっと違うかなと思う点もあった。

 フィリップ・ド・ブロカ(1933~2004)は「リオの男」(1964)が世界的にヒットした監督で、「カトマンズの男」「おかしなおかしな大冒険」など、ジャン=ポール・ベルモンドが主演する娯楽映画で知られる。特にアート系の映画作家ではなく、「まぼろしの市街戦」も判りやすくユーモラスな映画である。でも、戦争の不条理を徹底的に笑っている点、愚かな軍人より精神病院の患者の方がずっと心豊かで自由に生きているという皮肉なストーリーが特にベトナム戦争中のアメリカで大受けした。

 第一次大戦末期の北フランスのある町で、ドイツ軍は真夜中に爆発する爆弾を仕掛けて撤退する。床屋がそれを聞いていて、イギリス軍(スカートを履いたスコットランド兵)に通報する。英軍はフランス語が話せる伝書鳩の通信兵フランピック(アラン・ベイツ)を派遣するが、残留ドイツ軍に発見される。逃げ回る中で取り残されていた精神病院に紛れ込んで患者の一員のふりをして助かるものの、「ハートの王」を名乗ったため患者たちから王に祭り上げられる。

 独軍はいなくなり住民も避難した町で、残されたのは患者たちだけ。病院を抜け出し、サーカスの動物たち(熊やラクダや象など)も解放し、町は狂気の祝祭空間となる。患者たちはフランピックを王に戴冠しようとするが、彼は爆弾探しが気になって仕方ない。英軍、独軍ともに無能な上官に振り回される中、フランピックを愛してしまった「娼婦」(と思い込んでいる)コクリコ(ジュヌヴィエーブ・ビジョルド)の言葉から、フランピックは爆弾の仕掛けに気付くのだった。

 そしてどうなるかは書かないけど、ここまで軍人の愚かさを笑いのめした映画も少ない。ハンバーガー少尉とかアドルフ・ヒトラー伍長(監督本人がやってる)とか、ドイツ軍の名前もふざけている。ジュヌヴィエーブ・ビジョルドは、ケベック系カナダ人の女優で「1000日のアン」でアカデミー賞にノミネートされた。米仏で活躍し、その頃はずいぶん人気があった。黄色い傘を差しながら、電線を綱渡りするシーンは素晴らしい。フェリーニや寺山修司なんかの郷愁に満ちたサーカスではなく、ひたすら明るく楽しい祝祭シーンがいっぱい。

 戦争をしている軍人の方がホントは狂っていて、精神病患者の方が心の豊かさを持っている。世の中の常識を軽やかに転倒させたことで、この映画はカルト映画として語り継がれる名作となった。公開当時は評判にならず、60年代末の「反乱の季節」に再発見されたわけである。日本の1967年キネ旬ベストテンを調べてみたら、一人だけ5位に入れた選者がいて6点で第34位になっていた。「アルジェの戦い」や「気狂いピエロ」「華氏451」「冒険者たち」なんかと同じ年である。

 引っかかるのは「狂気」の描き方。「狂気」(精神疾患)に「自由」を見出すわけだが、今では「ロマンティックな狂気観」と言うべきものだ。患者たちは牢獄のような檻に閉じ込められているが、精神的な錯乱は見られず、ただ妄想を抱いて生きているだけ。自分を公爵とか将軍と思い込んでいるところが正常ではないけど、毎日楽しくトランプをしている。しかし、実際に妄想を抱くというのは、自分の思いのままにならない人生を送っているということだ。精神的にも肉体的にも苦しい。病気なんだから当然苦しいのである。そういう現実の姿を捨てたところに成立するファンタジーで、楽しめればいいと言えばそうなんだけど、苦難の人生を送っている人も忘れちゃいけない。
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