国立映画アーカイブで映画美術監督木村威夫(たけお)の特集をやっている。そこで、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974)を久しぶりに見た。原作は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した山崎朋子の「サンダカン八番娼館」(1972、文春文庫に新装版)で、当時多くの人に読まれた。70年代に歴史を学んだ学生なら多分全員読んでるだろう。日本の近代史を考えるときに必ず知っておくべき本と映画だから、ここでも書いておきたいと思う。
熊井監督はこの前書いた「忍ぶ川」(1972)に続いて、1973年の「朝やけの詩」をはさみ、1974年にこの映画で再びベストワンになった。世界的にも高く評価され、田中絹代がベルリン映画祭で最優秀女優賞を受け、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。僕は若いころに2回は見ているが、田中絹代に「神演技」を見た。無声映画時代から日本を代表する大人気女優で、何本か監督もした。この素晴らしい演技が永遠に残されたのは喜ばしい。
映画はほぼ原作通りに進行するが、原作者にあたる女性史研究家三谷圭子(栗原小巻)が創作されている。三谷は海外に売春婦として出稼ぎしていた「からゆきさん」の歴史を探るため、天草で調査をしていた。人々の口は重く、収穫もなく帰ろうとしていた時、食堂で北川サキ(田中絹代)という老女に出会う。老女の家を訪ねると、あまりのボロ屋敷ぶりに絶句するが、一緒に茶を飲み、話をするうちに心の交流が始まってゆく。
三谷は一週間後に再びサキを訪ね寝食を共にするが、昔話は避けられる。しかし村の行商人(山谷初男)が三谷を夜這いに襲った日から、話をしてくれる。「男にひどい目に合わされた」ことで共感されたのだろう。民衆史の「オーラル・ヒストリー」(口述による歴史)で一番難しいのは対象者との信頼関係構築だ。この映画はそこに焦点を当てていることが特徴である。過去の過酷なドラマだけではなく、田中絹代のシーンがあることで深みがぐんと増している。
サキの過去は壮絶なものだった。父が死に母が叔父と再婚して居場所を失った兄とサキ(高橋洋子)は出稼ぎに行くことになる。サキは海外に行けると承諾するが、「売春婦への身売り」だとは知らなかった。英領ボルネオ(現在のマレーシアのサバ州)の港町サンダカンに連れていかれたサキは、15歳になると強制的に客を取らされた。最初の客はマレー人で、言葉も何も判らないままレイプされた。ゴム園助手の日本人秀夫(田中健)と愛しあったこともあったが、結局は裏切られる。
(若い時期のサキ)
日本の軍艦が上陸するとサンダカンの娼婦もひとり30人のノルマを課せられる。そのさなかに廓主の太郎造(小沢栄太郎)が急死するが、娼婦から成り上がった「伝説の人」キク(水の江瀧子)が急場を救う。貴族院議員が訪問すると、体裁が悪いから閉鎖しろと言われる。キクの死後、やっと故郷に帰ったがそこでも受け入れられず、今度は満州へ行く。結婚して子どもも産まれたが、引き上げで夫を失った。大日本帝国の先兵のように「海外進出」して行ったサキの一生だった。
これは典型的な「棄民」である。サキは「男は信用できない」という人生訓を持つが、国家に関しては何も言わない。一度も寄り付かない息子が送ってくるわずかな金で最貧の暮らしを送っている。三谷を受け入れたことで、村の恥が暴かれるのではないかと村人からも疎外されている。国家に棄てられ続けたサキの姿に底辺民衆の真実がある。また「軍隊と売春」には深い関わりがあることも判る。「国家」を相対化できず「恥」の感覚に囚われ続ける民衆像は今も重い。
ただ映画的に言えば、「スター主義」的な作りになっている。栗原小巻、高橋洋子に対するに、田中絹代という大女優を配し、その絡みでほぼ映画が成り立っている。重いテーマだから社会派的に見えるが、女優のクローズアップを中心にした女性映画である。伊福部昭の音楽も、ここぞというところで鳴り響く。高橋洋子の「初店」シーンでも、マレー人のタトゥーがおどろおどろしく描写される。熊井啓作品に時々見られるセンチメンタリズムやセンセーショナリズムが感じられる。そこが今見ると残念だと思う。
ところで、僕は木村威夫と言えば、どうしても鈴木清順作品を思い出してしまう。しかし、今回の上映リストを見ると、熊井啓監督ともずいぶん仕事をしていたなと思った。同時代で見ていた時には、監督や俳優、あるいはテーマに気を取られて美術監督を意識しなかった。この映画でもサンダカンの娼館街や天草の貧乏暮らしの家など、素晴らしいを通り越して圧倒されてしまうセットである。日本映画でこのようなことができた時代だったんだなと感じ入った。
熊井監督はこの前書いた「忍ぶ川」(1972)に続いて、1973年の「朝やけの詩」をはさみ、1974年にこの映画で再びベストワンになった。世界的にも高く評価され、田中絹代がベルリン映画祭で最優秀女優賞を受け、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。僕は若いころに2回は見ているが、田中絹代に「神演技」を見た。無声映画時代から日本を代表する大人気女優で、何本か監督もした。この素晴らしい演技が永遠に残されたのは喜ばしい。
映画はほぼ原作通りに進行するが、原作者にあたる女性史研究家三谷圭子(栗原小巻)が創作されている。三谷は海外に売春婦として出稼ぎしていた「からゆきさん」の歴史を探るため、天草で調査をしていた。人々の口は重く、収穫もなく帰ろうとしていた時、食堂で北川サキ(田中絹代)という老女に出会う。老女の家を訪ねると、あまりのボロ屋敷ぶりに絶句するが、一緒に茶を飲み、話をするうちに心の交流が始まってゆく。
三谷は一週間後に再びサキを訪ね寝食を共にするが、昔話は避けられる。しかし村の行商人(山谷初男)が三谷を夜這いに襲った日から、話をしてくれる。「男にひどい目に合わされた」ことで共感されたのだろう。民衆史の「オーラル・ヒストリー」(口述による歴史)で一番難しいのは対象者との信頼関係構築だ。この映画はそこに焦点を当てていることが特徴である。過去の過酷なドラマだけではなく、田中絹代のシーンがあることで深みがぐんと増している。
サキの過去は壮絶なものだった。父が死に母が叔父と再婚して居場所を失った兄とサキ(高橋洋子)は出稼ぎに行くことになる。サキは海外に行けると承諾するが、「売春婦への身売り」だとは知らなかった。英領ボルネオ(現在のマレーシアのサバ州)の港町サンダカンに連れていかれたサキは、15歳になると強制的に客を取らされた。最初の客はマレー人で、言葉も何も判らないままレイプされた。ゴム園助手の日本人秀夫(田中健)と愛しあったこともあったが、結局は裏切られる。
(若い時期のサキ)
日本の軍艦が上陸するとサンダカンの娼婦もひとり30人のノルマを課せられる。そのさなかに廓主の太郎造(小沢栄太郎)が急死するが、娼婦から成り上がった「伝説の人」キク(水の江瀧子)が急場を救う。貴族院議員が訪問すると、体裁が悪いから閉鎖しろと言われる。キクの死後、やっと故郷に帰ったがそこでも受け入れられず、今度は満州へ行く。結婚して子どもも産まれたが、引き上げで夫を失った。大日本帝国の先兵のように「海外進出」して行ったサキの一生だった。
これは典型的な「棄民」である。サキは「男は信用できない」という人生訓を持つが、国家に関しては何も言わない。一度も寄り付かない息子が送ってくるわずかな金で最貧の暮らしを送っている。三谷を受け入れたことで、村の恥が暴かれるのではないかと村人からも疎外されている。国家に棄てられ続けたサキの姿に底辺民衆の真実がある。また「軍隊と売春」には深い関わりがあることも判る。「国家」を相対化できず「恥」の感覚に囚われ続ける民衆像は今も重い。
ただ映画的に言えば、「スター主義」的な作りになっている。栗原小巻、高橋洋子に対するに、田中絹代という大女優を配し、その絡みでほぼ映画が成り立っている。重いテーマだから社会派的に見えるが、女優のクローズアップを中心にした女性映画である。伊福部昭の音楽も、ここぞというところで鳴り響く。高橋洋子の「初店」シーンでも、マレー人のタトゥーがおどろおどろしく描写される。熊井啓作品に時々見られるセンチメンタリズムやセンセーショナリズムが感じられる。そこが今見ると残念だと思う。
ところで、僕は木村威夫と言えば、どうしても鈴木清順作品を思い出してしまう。しかし、今回の上映リストを見ると、熊井啓監督ともずいぶん仕事をしていたなと思った。同時代で見ていた時には、監督や俳優、あるいはテーマに気を取られて美術監督を意識しなかった。この映画でもサンダカンの娼館街や天草の貧乏暮らしの家など、素晴らしいを通り越して圧倒されてしまうセットである。日本映画でこのようなことができた時代だったんだなと感じ入った。