尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「徴用工」とはどんな人々か-徴用工判決考④

2018年11月20日 20時53分27秒 |  〃  (国際問題)
 断続的に書いている韓国大法院の「徴用工判決」問題。判決の論理は先に見たが、それは往々にして日本人論者が「誤解」するような「請求権協定」に対する「違反」や「無視」ではない。不払い賃金などの「請求権」とは別に、「慰謝料請求権」があるという論理なのである。「植民支配」下にあって「侵略戦争」に「戦時強制動員」されたという本質から、その権利が導き出された。

 ところが最近になって安倍政権は原告の人々を「徴用工」とは呼ばないようになっている。「徴用工」とは狭義では「国民徴用令」を適用された人々のことだ。国民徴用令は1939年に制定された勅令(議会の議決を経ずに天皇の裁可による法令)である。1938年に成立した国家総動員法に基づき、国民を強制的に軍需産業に動員できるようにした。朝鮮での適用は1944年8月なので、確かに裁判の原告たちは国民徴用令を適用されてはいない

 どのような事情だったのか、判決を見てみたい。原告は4人いるが、判決を見ると「1923年から1929年の間に、韓半島で生まれ、平壌、保寧、群山などで居住した」とある。1945年の日本敗戦時でも、16歳から22歳という非常に若い年齢だったのである。最初に出ている二人の場合を見ると、 「旧日本製鉄は1943年頃、平壌で大阪製鉄所の工員募集広告を出したが、その広告には大阪製鉄所で2年間訓練を受ければ、技術を習得することができ、訓練終了後、韓半島の製鉄所で技術者として就職することができると記載されていた。」

 原告は「上記広告をみて、技術を習得して我が国で就職することができるという点にひかれて応募」し、面接を経て大阪で働いた。しかし、実際には「ひと月に1、2回程度外出を許可され、ひと月に2、3円程度の小遣いを支給されただけで、 旧日本製鉄は賃金全額を支給すれば浪費する恐れがあるという理由をあげ」「同意を得ないまま、彼ら名義の口座に賃金の大部分を一方的に入金し、その貯金通帳と印鑑を寄宿舎の舎監に保管させ」た。

 仕事の内容は「火炉に石炭を入れて砕いて混ぜたり、鉄パイプの中に入って石炭の残物をとり除くなど火傷の危険があり、技術習得とは何ら関係がない非常につらい労役に従事したが、 提供される食事の量は非常に少なかった。また、警察がしばしば立ち寄り彼らに「逃げても直ぐに捕まえられる」と言い、寄宿舎でも監視する者がいたため、逃亡を考えることも難しく、原告2は逃げだしたいと言ったのがばれて寄宿舎の舎監から殴打され体罰を受けたりもした。」

 その後1944年になると、何の対価も払われないようになり、大阪も空襲を受け訓練工に死者も出た。原告らは清津(朝鮮半島北部)に配置換えされたが、大阪時代の預金通帳と印鑑は返還されなかった。その後清津工場をソ連軍が攻撃しソ連軍を避けてソウルに逃げ、「ようやく日帝から解放された事実を知った。」このように、間違いなく原告らは労働者募集に「応募」して日本に来たわけだが、実態としては「総力戦体制下の戦時強制労働」というしかないものだったのである。
 
 朝鮮半島からの動員に関しては、「募集」「官斡旋」「国民徴用令のよる強制徴用」の3つがあった。1942年から「官斡旋(かんあっせん)」が始まるが、戦局悪化に伴い労働力確保がますます厳しくなり、斡旋というけど事実上「官」(公権力)の関与が必要になってきたわけである。残る2人の原告は官斡旋によって日本に来た。判決によれば「推薦」や「指示」によるというが、常識的に考えて拒否することはできなかっただろう。もちろん賃金は貰えなかった。

 「募集」と「官斡旋」「徴用」に大きな違いがあっただろうか。日本は日中戦争のさなかで「国家総動員体制」にあった。もともと植民地朝鮮から「内地」に自由に移動できたわけではない。「内地」で労働力が不足するようになり、朝鮮総督府で「労務動員計画」を作成し計画的に労働者の動員を行った。企業側は日本語が不自由な若者を集めるためには、当初から行政や警察当局の協力を得たとされる。「徴用」という言葉は特殊な法律用語ではないから、これらの原告たちを「広義の徴用工」と呼んでも差し支えないように思う。

 昔は「強制連行」と表現された時代もある。公権力によって連行されたわけではないので、朝鮮人動員に対しては「強制連行」という言葉はふさわしくない。(中国人などの場合、軍による「強制連行」が存在したので、区別する必要がある。)しかし、日本政府は「北朝鮮による拉致問題」では北朝鮮特務機関員の「強制」(横田めぐみさんのようなケース)ばかりではなく、一応は自らの意思で訪朝したまま帰れないケースも「拉致被害者」と認定している。それも考え合わせるると、事実上拒否しにくい中で不自由な環境で働かされた人々は「徴用」と呼ぶべきだろう。
 (新日鐵住金本社に向かう原告弁護士ら)
 判決を受け、原告の弁護士や支援団体が12日に新日鐵住金本社を訪問した。しかし、会社側は面会を拒否し、なんと警備員が受付で「日韓請求権協定や日本政府の見解に反するもので遺憾だ」と伝えたという。(11.13日付東京新聞朝刊)。現実に日本製鐵に戦時中に非人道的な扱いを受けた人々に対して、法律的な見解は別にして面会もしないというのはあまりにも冷たすぎるのではないか。韓国の大法院判決に対して、受付の警備員が見解を伝えて終わりにするのか。この日本企業、日本政府のあり方こそが、何十年経っても問題が解決しない原因なのではないか。
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