韓国大法院の「徴用工判決」について今まで4回書いてきた。それぞれは以下の通り。
①「日韓それぞれの『国家の体』-徴用工判決考①」
②「日本側の立場-徴用工判決考②」
③「韓国大法院(多数意見)の論理-徴用工判決考③」
④「『徴用工』とはどんな人々か-徴用工判決考④」
日韓それぞれの主張、および「徴用工」の実像を見てきたが、最後にこの問題の本質とこれからの問題を考えてみたい。現実に不当な扱いを受けた人々が存在するのは事実だが、法的な認識は日韓で全く正反対である。日本側は「請求権協定で解決済み」とするが、韓国側は「戦時強制動員に対する慰謝料請求権は、請求権協定とは別の問題」とする。「請求権協定」の評価というよりも、僕の見るところでは「歴史に関する理解」が違っているように思う。
裁判官は歴史を裁くわけではない。それぞれの国の憲法に基づいて法的な判断を行う。日本では「大日本帝国憲法」の「改正」によって「日本国憲法」が誕生した。占領軍の関与、国会での修正などがあったけれども、法的には大日本帝国憲法の改正条項に基づき天皇の名において新憲法を公布した。だから、戦前と戦後は法的につながっている。国民主権が規定される以前の、国家による不当な行為については「国家賠償」を求めることができない(と最高裁は解釈する。)
一方、大韓民国は建国後たびたび憲法を改正して、今は1987年の民主化宣言を受けて成立した「第六共和国憲法」である。憲法前文では「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し(以下省略)」と書かれている。
日本国憲法以上に人権と正義が強調されている。そして「大韓民国臨時政府」を受け継ぐ憲法だと明記されている。臨時政府は三一独立運動後に上海に作られたが、どこの国からも承認されなかった。内部抗争の激しい亡命者集団で、統治の実質はなく、列強各国は日本の朝鮮統治を承認していた。日本側からすれば植民地支配そのものは「有効」だったが、韓国側からすれば日本支配そのものが不法である。不法な支配下に置かれた祖国から宗主国の侵略戦争に動員された労働者の苦難は、同胞愛の精神で救うのが司法の努めだと考える。
日本にいると、最高裁というところはつい「へ理屈をこね回して国家の利益を守る装置」に思えてくる。民事訴訟であれ刑事訴訟であれ、下級審ではたまに人権に配慮した判決も出るが、いつのまにか最高裁でひっくり返って国家の言い分が認められてしまう。だから韓国の大法院が日本ではおかしく見えてしまう。しかし韓国憲法に則って判断すれば、不法な支配下で起こった民族的受難を救おうとするのは正しい法的判断だということになる。
安倍政権、特に河野外相は大法院判決を「国際法に基づく国際秩序への挑戦」とまで言っている。「挑戦」とは英語にすれば「チャレンジ」。安倍首相はかつて第一次内閣の時に「再チャレンジ」を掲げたし、その後も何かにつけいろんなことに「チャレンジ」しているようだ。韓国は確かに「チャレンジ」している。未だ国際法では「植民支配」そのものを違法とする法理は確立されていない。イギリスに支配されたインド、フランスに支配されたアルジェリアなどでは宗主国の責任を問う動きもあると言うが、英仏は「謝罪」していない。
だからと言って、現実に日本統治下で大きな傷を負った隣国に対し、その「チャレンジ」をむげに退けるだけでいいのだろうか。問われているのは日本国民の「歴史認識」でもあるだろう。「植民支配」を問われているときに、法律的に反対するだけでいいのだろうか。先に見たように法律的な立脚点が違うので、法律的な議論をいくらしても「こころの決着」には至らない。国際的な場で日本の論理が認められたとしても、それが「解決」にはならない。問題をさらにこじらせるだけだろう。
日本政府の主張からすれば、法的な意味での「慰謝料」は払えないとなる。だけど現実に不払い賃金などがあったわけなんだから、「道義的な意味での慰謝料」は払うべきだし、払ってはいけないとは言えないだろう。ドイツの企業がそうだったように、戦時期の「賠償」を支払うための特別な財団組織を作り、日本企業が出資し日韓両政府も協力する方式しか「解決」策はないだろう。
①「日韓それぞれの『国家の体』-徴用工判決考①」
②「日本側の立場-徴用工判決考②」
③「韓国大法院(多数意見)の論理-徴用工判決考③」
④「『徴用工』とはどんな人々か-徴用工判決考④」
日韓それぞれの主張、および「徴用工」の実像を見てきたが、最後にこの問題の本質とこれからの問題を考えてみたい。現実に不当な扱いを受けた人々が存在するのは事実だが、法的な認識は日韓で全く正反対である。日本側は「請求権協定で解決済み」とするが、韓国側は「戦時強制動員に対する慰謝料請求権は、請求権協定とは別の問題」とする。「請求権協定」の評価というよりも、僕の見るところでは「歴史に関する理解」が違っているように思う。
裁判官は歴史を裁くわけではない。それぞれの国の憲法に基づいて法的な判断を行う。日本では「大日本帝国憲法」の「改正」によって「日本国憲法」が誕生した。占領軍の関与、国会での修正などがあったけれども、法的には大日本帝国憲法の改正条項に基づき天皇の名において新憲法を公布した。だから、戦前と戦後は法的につながっている。国民主権が規定される以前の、国家による不当な行為については「国家賠償」を求めることができない(と最高裁は解釈する。)
一方、大韓民国は建国後たびたび憲法を改正して、今は1987年の民主化宣言を受けて成立した「第六共和国憲法」である。憲法前文では「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し(以下省略)」と書かれている。
日本国憲法以上に人権と正義が強調されている。そして「大韓民国臨時政府」を受け継ぐ憲法だと明記されている。臨時政府は三一独立運動後に上海に作られたが、どこの国からも承認されなかった。内部抗争の激しい亡命者集団で、統治の実質はなく、列強各国は日本の朝鮮統治を承認していた。日本側からすれば植民地支配そのものは「有効」だったが、韓国側からすれば日本支配そのものが不法である。不法な支配下に置かれた祖国から宗主国の侵略戦争に動員された労働者の苦難は、同胞愛の精神で救うのが司法の努めだと考える。
日本にいると、最高裁というところはつい「へ理屈をこね回して国家の利益を守る装置」に思えてくる。民事訴訟であれ刑事訴訟であれ、下級審ではたまに人権に配慮した判決も出るが、いつのまにか最高裁でひっくり返って国家の言い分が認められてしまう。だから韓国の大法院が日本ではおかしく見えてしまう。しかし韓国憲法に則って判断すれば、不法な支配下で起こった民族的受難を救おうとするのは正しい法的判断だということになる。
安倍政権、特に河野外相は大法院判決を「国際法に基づく国際秩序への挑戦」とまで言っている。「挑戦」とは英語にすれば「チャレンジ」。安倍首相はかつて第一次内閣の時に「再チャレンジ」を掲げたし、その後も何かにつけいろんなことに「チャレンジ」しているようだ。韓国は確かに「チャレンジ」している。未だ国際法では「植民支配」そのものを違法とする法理は確立されていない。イギリスに支配されたインド、フランスに支配されたアルジェリアなどでは宗主国の責任を問う動きもあると言うが、英仏は「謝罪」していない。
だからと言って、現実に日本統治下で大きな傷を負った隣国に対し、その「チャレンジ」をむげに退けるだけでいいのだろうか。問われているのは日本国民の「歴史認識」でもあるだろう。「植民支配」を問われているときに、法律的に反対するだけでいいのだろうか。先に見たように法律的な立脚点が違うので、法律的な議論をいくらしても「こころの決着」には至らない。国際的な場で日本の論理が認められたとしても、それが「解決」にはならない。問題をさらにこじらせるだけだろう。
日本政府の主張からすれば、法的な意味での「慰謝料」は払えないとなる。だけど現実に不払い賃金などがあったわけなんだから、「道義的な意味での慰謝料」は払うべきだし、払ってはいけないとは言えないだろう。ドイツの企業がそうだったように、戦時期の「賠償」を支払うための特別な財団組織を作り、日本企業が出資し日韓両政府も協力する方式しか「解決」策はないだろう。