尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書「承久の乱」を読む

2019年03月11日 23時01分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 毎日映画でもなんだから、歴史本の紹介。中公新書で12月末に出た坂井孝一著「承久の乱」がとても面白かった。最近出た中では出色の歴史本だと思う。著者の坂井孝一氏(1958~、創価大学教授)は、筆者紹介によると曽我物語や源実朝などの研究書がある。この本は日本史上の大事件、1221年(承久3年)の「承久(じょうきゅう)の乱」について、さまざまな諸相を語りつくしている。「中世の幕開け」である白河院政の成立から書かれていて、乱に至る全体像をつかめる。
 
 「承久の乱」というのは、簡単に言えば「後鳥羽上皇のクーデタ事件」である。よく「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をつぶそうとした」と言われるが、著者によればそれは間違った理解である。「鎌倉幕府」の第三代将軍、源実朝(みなもとのさねとも、1192~1219)と後鳥羽上皇の関係は良好だった。実朝の暗殺により、源氏将軍の血筋は途絶える。幕府は上皇の皇子を将軍後継に望むが、結局それは叶わず摂関家の九条家の幼児が将来の将軍として選定された。それでも摂関家の血筋の将軍を認めているわけで、上皇の目的は執権である北条義時の排除に限定されていた。

 それが上皇の目的は「幕府をつぶす」ことと思われているのは、「尼将軍」北条政子の有名な演説の影響が大きいという。幕府方は情報管理に優れていて、御家人たちは北条政子の演説にある通り、「故頼朝将軍の恩顧を忘れてはいけない」という意向で動くことになる。これは意図的なミスリーディングというべきだ。あえて論点をずらして、感情的なフレーズを訴える点など、現在の安倍政権を思わせるやり方だ。それが歴史上他に例を見ないほどの大成功を収めるんだから、北条政子の政治的なリーダーシップのすごさが判る。

 乱が起こったのは後鳥羽上皇の責任である。しかし、教科書ではあっという間に簡単に鎌倉方が勝っちゃうような印象だけど、くわしく見るとなかなか激戦だった。特に要衝である宇治川をめぐる戦いはなかなか決着のつかない激戦となった。宇治川と言えば、平家物語の源平の戦いが名高いが、著者によれば平家物語の描写も承久の乱の戦いの影響が大きいのではないかという。上皇方も何の打つ手もなく負けてしまったわけでもなく、それなりの戦略もあった。でも効果的な戦略を立てる人がいなくて、勢力を分散させてしまった。

 後鳥羽上皇(1180~1239)は、日本史上に珍しい特別な人物だ。この人ほど文武両道に秀でた天皇は他にいないだろう。しかし、才能に恵まれるということは人生にいかに悲劇をもたらすか。乱に敗れ、三上皇配流となり、後鳥羽も隠岐に流され、そこで人生を終わる。後鳥羽は高倉天皇の第4子で、後白河上皇の孫にあたる。1183年、木曽義仲軍が京都に迫り、平家は幼帝、安徳天皇を連れて西下した。その時に、新天皇を立てることになり、安徳の異母弟、後鳥羽が3歳で即位する。でも安徳は退位したわけではなく、「三種の神器」を持ったまま西下していた。

 つまり「神器なき即位」だった。そして平家の敗北とともに、安徳天皇も壇ノ浦に入水した。この時に平家は神器も一緒に飛び込んでしまい、宝剣「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)だけはついに発見できなかった。前例通りを墨守する中世社会にとって、この「神器なき即位」は後鳥羽にとって強烈なコンプレックスになった。自分は正当な天皇なのだろうかと自問する中で、「天皇にふさわしい」文化を身に付け宮廷文化の中心となる。新古今和歌集の編纂を命じたことは有名。その他「蹴鞠」(けまり)を自ら行うなど、スポーツ能力にすぐれていたことも特徴だ。

 そんな後鳥羽が期待をかけていた実朝(この名も上皇が与えた)が暗殺され、事実上北条氏の政府となる。次第に上皇の心に、武力で北条氏を倒すという目標が入り込んで行く。自分が命令すれば、西国の武士は従うという自己過信もあっただろう。武士の世界を知らず、簡単に考えていた面も大きい。鎌倉幕府も内紛が絶えず、内部崩壊する可能性もなかったとは言えない。まさか東国武士が直ちに結集するなど予測もしなかっただろう。そして承久の乱の結果、東国武士の勢力が西日本にも及び日本史を変えてしまった。
 (配流前に描かれた肖像画)
 後鳥羽上皇とともに、土御門上皇順徳上皇も流された。土御門は乱に関与していなかったが、自ら望んだとされる。(土御門は土佐、後に阿波、順徳は佐渡。)乱当時の天皇は順徳皇子の幼帝で、乱後に廃位された。史上もっとも在位が短い天皇で、2カ月ほど。仲恭(ちゅうきょう)天皇と呼ぶが、この名は明治時代に付けられた。ところで、土御門は1195年生まれで、母は源在子。なんと後鳥羽は15歳、在子は9歳上の24歳。順徳は1197年生まれで母は藤原重子。後鳥羽は17歳で、重子は2歳下の15歳。年齢にちょっとビックリするが、「姉さん女房」より寵愛する「幼な妻」に生まれた順徳を愛して、ともに乱に突き進むわけである。
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