2019年のアカデミー賞で監督賞、撮影賞、外国語映画賞を受賞したアルフォンソ・キュアロン監督の「ROMA/ローマ」。Netflix(ネットフリックス)が配給する作品として、初めてヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞して評判になった。知名度の高い俳優は誰も出ていない、135分のモノクロ映画。今時そんなものを作れるのか。アメリカでは限定的に劇場公開されたようだが、日本では東京国際映画祭でちょっと上映されただけで、ネット配信されていた。大スクリーンで見ることは叶わないのかと思っていたら、全国のイオンシネマ(一部を除く)で上映されるという。
(ラスト近くの海のシーン)
これは逃すまじと思って調べてみる。そもそもイオンシネマってどこにあるんだ? イオンモールにあるらしく都心部にはない。どこも遠いうえに、上映時間が朝や夜に限られている。中でイオンシネマ春日部とうところが近いらしい。午後の上映もあるし、家から電車で一本なので、そこまで行くことにした。けっこう広いスクリーンになんと観客9人とは、この企画は失敗なのか。でもチラシもないんだから、やむを得ないか。まあ宣伝広告費も掛けてないんだから、良いのだろうか。東京でアート系のミニシアター(ユーロスペースなど)で企画した方が良かったのかもしれない。
それはともかく映画の内容。「ローマ」というけど、イタリアの首都じゃなくてメキシコシティの中産階級地区の名前だというのは、この映画を見る人には判っている。けっこう広い家で家政婦が2人いる。日本基準だと上流という感じだが、父親は医者だというから確かに中流なんだろう。そこの家政婦であるクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)の目を通して映画は進行する。監督の体験に基づくシナリオで、4人いる子どもの一人が監督だという話。アルフォンソ・キュアロンは、なんと監督、脚本、撮影を兼ねていて、その3部門でアカデミー賞にノミネートされた。(他に製作と編集もやっている。)キュアロンはパンを多用し、落ち着いたモノクロ映像で撮影している。
映画は最初のうち、淡々とクレオの仕事を見つめている。現代の話ではなく、1971年と時代が限定されることがそのうち判ってくる。クレオは貧しい村から出て来た身で、たまの休みにはいとことダブルデートしたりする。フェルミンとは映画を見ず、部屋を借りて結ばれる。フェルミンはちょっと変わっていて、クレオを前にして真っ裸で武道を披露する。終わった後で「ありがとうございました」と日本語で言うから驚いた。そういう武道に熱中しているのである。
クレオは妊娠してしまったが、フェルミンは消える。地主の家に集まったり、さまざまなエピソードを描き出してゆくが、勤めている家もおかしくなってくる。カナダに研究で行くという父が、そのまま帰ってこない。どうも愛人のもとへ行ってしまったらしい。一方、クレオはフェルミンのいる場所探して訪ねるが、そこは大々的な武道鍛錬をするところだった。フェルミンは責任を認めず、もう来るなと言って去る。クレオを見下す言葉を残して。クレオも、雇用主のソフィアも男にひどい目にあるが、二人と子どもたちは心を通わせて生きて行く(だろう)というところで映画は終わる。
妊娠中のクレオを連れて、ソフィアの母が子どものベッドを買いにいく。その日は街頭でデモが行われて混乱している。そこへ突然銃声が聞こえる。追われた学生が家具店に逃げ込み、そこへ武器を持った男たちが押し寄せ残虐に殺してしまう。その男たちの中にフェルミンがいて、クレオと見つめあう。クレオは破水して、急いで病院に向かうが街は渋滞で車が進まない。クレオの悲劇を演じるアパリシオの演技がすごい。ヤリッツァ・アパリシオ(1993~)は演技体験ゼロでアカデミー賞ノミネート。演技だけを純粋に評価するなら、アパリシオに主演女優賞を贈りたい。
このシーンは1971年6月10日の「血の木曜日事件」を描いている。フェルミンが所属するのは「ロス・アルコネス」という政権支持の暴力集団だという。1968年のメキシコ五輪直前の「トラテロルコ事件」(学生ら約300人が殺害された)と並ぶ強権的弾圧事件である。監督はこれを描きたかったのか。ラストで大きな車を売ってしまう記念に、家族は海へ出かける。奇しくもカンヌ最高賞の「万引き家族」でも、皆で海へ行く忘れがたいシーンがあった。どちらも素晴らしいシーンだと思う。
(アルフォンソ・キュアロン)
モノクロが美しいという声が高いが、僕の見るところでは宮川一夫やスヴェン・ニクヴィストの方が素晴らしい。自伝的要素が多いからか、ドラマ的には抑制されていて、案外淡々と進む。キュアロン(1961~)は、「ゼロ・グラビティ」以来5年ぶりの新作。ハリウッドでいろいろ撮ってきたが、メキシコを舞台にした「天国の口、終りの楽園。」が一番素晴らしいと思う。やはりメキシコに語りたいことがあるということなんだろう。賞レースでは過大評価の気味もあると思うが、忘れがたい佳作には違いない。ネット配信作品をどう考えるかなど論点は多いが、長くなったので止めたい。
(ラスト近くの海のシーン)
これは逃すまじと思って調べてみる。そもそもイオンシネマってどこにあるんだ? イオンモールにあるらしく都心部にはない。どこも遠いうえに、上映時間が朝や夜に限られている。中でイオンシネマ春日部とうところが近いらしい。午後の上映もあるし、家から電車で一本なので、そこまで行くことにした。けっこう広いスクリーンになんと観客9人とは、この企画は失敗なのか。でもチラシもないんだから、やむを得ないか。まあ宣伝広告費も掛けてないんだから、良いのだろうか。東京でアート系のミニシアター(ユーロスペースなど)で企画した方が良かったのかもしれない。
それはともかく映画の内容。「ローマ」というけど、イタリアの首都じゃなくてメキシコシティの中産階級地区の名前だというのは、この映画を見る人には判っている。けっこう広い家で家政婦が2人いる。日本基準だと上流という感じだが、父親は医者だというから確かに中流なんだろう。そこの家政婦であるクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)の目を通して映画は進行する。監督の体験に基づくシナリオで、4人いる子どもの一人が監督だという話。アルフォンソ・キュアロンは、なんと監督、脚本、撮影を兼ねていて、その3部門でアカデミー賞にノミネートされた。(他に製作と編集もやっている。)キュアロンはパンを多用し、落ち着いたモノクロ映像で撮影している。
映画は最初のうち、淡々とクレオの仕事を見つめている。現代の話ではなく、1971年と時代が限定されることがそのうち判ってくる。クレオは貧しい村から出て来た身で、たまの休みにはいとことダブルデートしたりする。フェルミンとは映画を見ず、部屋を借りて結ばれる。フェルミンはちょっと変わっていて、クレオを前にして真っ裸で武道を披露する。終わった後で「ありがとうございました」と日本語で言うから驚いた。そういう武道に熱中しているのである。
クレオは妊娠してしまったが、フェルミンは消える。地主の家に集まったり、さまざまなエピソードを描き出してゆくが、勤めている家もおかしくなってくる。カナダに研究で行くという父が、そのまま帰ってこない。どうも愛人のもとへ行ってしまったらしい。一方、クレオはフェルミンのいる場所探して訪ねるが、そこは大々的な武道鍛錬をするところだった。フェルミンは責任を認めず、もう来るなと言って去る。クレオを見下す言葉を残して。クレオも、雇用主のソフィアも男にひどい目にあるが、二人と子どもたちは心を通わせて生きて行く(だろう)というところで映画は終わる。
妊娠中のクレオを連れて、ソフィアの母が子どものベッドを買いにいく。その日は街頭でデモが行われて混乱している。そこへ突然銃声が聞こえる。追われた学生が家具店に逃げ込み、そこへ武器を持った男たちが押し寄せ残虐に殺してしまう。その男たちの中にフェルミンがいて、クレオと見つめあう。クレオは破水して、急いで病院に向かうが街は渋滞で車が進まない。クレオの悲劇を演じるアパリシオの演技がすごい。ヤリッツァ・アパリシオ(1993~)は演技体験ゼロでアカデミー賞ノミネート。演技だけを純粋に評価するなら、アパリシオに主演女優賞を贈りたい。
このシーンは1971年6月10日の「血の木曜日事件」を描いている。フェルミンが所属するのは「ロス・アルコネス」という政権支持の暴力集団だという。1968年のメキシコ五輪直前の「トラテロルコ事件」(学生ら約300人が殺害された)と並ぶ強権的弾圧事件である。監督はこれを描きたかったのか。ラストで大きな車を売ってしまう記念に、家族は海へ出かける。奇しくもカンヌ最高賞の「万引き家族」でも、皆で海へ行く忘れがたいシーンがあった。どちらも素晴らしいシーンだと思う。
(アルフォンソ・キュアロン)
モノクロが美しいという声が高いが、僕の見るところでは宮川一夫やスヴェン・ニクヴィストの方が素晴らしい。自伝的要素が多いからか、ドラマ的には抑制されていて、案外淡々と進む。キュアロン(1961~)は、「ゼロ・グラビティ」以来5年ぶりの新作。ハリウッドでいろいろ撮ってきたが、メキシコを舞台にした「天国の口、終りの楽園。」が一番素晴らしいと思う。やはりメキシコに語りたいことがあるということなんだろう。賞レースでは過大評価の気味もあると思うが、忘れがたい佳作には違いない。ネット配信作品をどう考えるかなど論点は多いが、長くなったので止めたい。