恩田陸の直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」(2016)が映画化されて公開された。僕は芥川賞や直木賞受賞作は読んでおきたいと思っているが、この本は長大すぎて重そうだし、幻冬舎だから単行本は買わなかった。4月に文庫化され、まあ賞を取った作品は例外としているので買ったわけ(今まで姫野カオルコ「昭和の犬」が該当)。上下巻950頁もある本だが、映画を見る前に読みたい。読み始めたらあっという間に読み終わった。面白いし、傑作だが、音楽シーンなど改行が多くてスラスラ進む。
この小説は「浜松国際ピアノコンクール」(原作・映画では「芳ヶ江」と地名変更)をモデルに、コンクールに臨む若きピアニスト群像を描いている。「母の死をきっかけにコンサートをドタキャンして消えた天才少女」=栄伝亜夜(えいでん・あや)に松岡茉優。音大卒で一度はプロを目指したものの、現在は楽器店勤務で妻子もいて、年齢制限上限の28歳ながら「生活者の音楽」を志す高島明石=松坂桃李で、このキャストは知ってて読んだからイメージ通りである。この二人の名前が一番先にあるから、どうしてもドラマで重視されてきて、原作にはない二人の会話も描かれる。
そりゃまあいいけど、映画は原作と違うところが多い。それは当然で、原作通りに映像化したら時間がいくらあっても足りない。映画は「愚行録」の石川慶が脚本、監督、編集にすべてクレジットされている。石川監督は原作上巻350頁近くを占めるエントリーと第一次予選をほぼ飛ばしてしまい、映画はすぐに第二次予選になる。第三次予選はなかったことにされ、後半はすぐに本選である。うーん、大工夫だけど、ちょっと寂しいかな。もっと長くして、全編・後編で公開するやり方もあったと思う。
ただ映画化されて良かったことは、小説の中にしか存在しなかった架空の音楽、菱沼忠明(映画では光石研)が作曲した「春と修羅」を聞けること。名前の通り、宮沢賢治にインスパイアされた曲である。この曲には「カデンツァ」部分がある。カデンツァなんて言葉も知らなかったけど、独奏者が即興で演奏する指定部分だという。ここで一番最初に登場するのは、ジュリアード音楽院に通うマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)。亜夜の幼なじみで、コンクールで再会した設定は同じ。森崎ウィンは悪くないけど、王子様と言われるほどの存在感かというとちょっとビミョーか。
ピアノも持ってない養蜂家の子、日本人でありながらフランスに住んでいる風間塵(かざま・じん)はオーディションで選ばれた鈴鹿央士(すずか・おうじ)が演じている。見ているうちに、これが「風間塵か」という気持ちになっていくが、天衣無縫というイメージには合っている。しかし、自然の中で生きている養蜂家の子どもという意味では、僕のイメージとは少し違ってたかも。さらに、高島明石は原作では岩手を何度も訪れて賢治の世界を実感しようとするが、映画では岩手県在住に変更。「永訣の朝」の妹の言葉をイメージしてカデンツァを弾く。現実にはない曲を、映画では実際の課題曲として十分聴き応えがあるように映像化している。ここは映画最大の見どころ(聴きどころ)だ。
実際に作曲しているのは、藤倉大(1977~)という人で、国際的に活躍している作曲家である。4人が弾くカデンツァ部分も作曲している。この曲が非常に素晴らしい。恩田陸が原作でかなり細かくイメージを膨らませているところを、なかなかうまく出来ている。演奏しているのは、栄伝亜夜=河村尚子、 高島明石=福間洸太朗、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール=金子三勇士、風間塵=藤田真央という、僕は知らないけど国際的に活躍している若手ピアニストである。ホームページに載っているが、これが演じた俳優と風貌や経歴がよく似ている。CDも出ている。もちろん俳優が演奏しているわけはないから、実はこのピアニスト4人が真の主役と言うべきだろう。
ところで原作では出ているのに映画に出て来ない人物が何人もいる。亜夜とマサルの幼いときのピアノの先生は、原作だと「綿貫先生」という人だが、映画では亜夜の母になっている。これはやむを得ない変更だろう。審査員やコンクール出演者は別にして、出て来なくて残念だったのは、亜夜の付き添い的な「浜崎奏」である。原作ではかなりよく出てきて、例えば海を見に行くシーンも、亜夜、マサル、塵、奏で行っている。映画では高島明石と彼を取材している仁科雅美が入って5人で行く。この雅美がブルゾンちえみだから、イメージが違いすぎ。僕は原作で一番「奏」が好きなんだけどなあ。
映画では奏がいないから、亜夜は最後まで揺れていて、大丈夫かなという演出になっている。だからずっと付き添っている役の奏がいるのである。だけど、奏がいないことで、一度は挫折した亜夜が「音楽の神様」のギフトである風間塵を通して音楽を発見していくという物語構造が明確になっている。それはまあ、原作の「正しい解釈」なんじゃないか。でも原作では、マサルや高島や多くの人が関わる。それに一次予選、二次予選、三次予選と通して、12曲も弾いている。その一つ一つの予選を通して、亜夜は自分を取り戻してゆくのである。原作の方がやはり映画より納得できるかなあ。
(恩田陸)
恩田陸さんは子どもの頃からクラシックを聴いてきたという。特にピアノが好きで、モデルのコンクールも第4回から第10回までずっと聴きに行っているという話。実によくクラシック音楽を知っているなと判るような記述が楽しい。風間塵が三次予選でエリック・サティを何度も弾き、最後はサン・サーンスの「アフリカ幻想曲」って、こんな選曲をする人は実際にはいないだろうが、よく考えてあるのにビックリした。でも言葉だからいくらでも奥深く語れるところもあるだろう。知らない曲が多くて、いくつかYouTubeで聴いてみたけど、なんだかなあという感じがすることが多かった。
原作でも非常に印象的な、亜夜と塵が夜に連弾するところ。映画でもドビュッシーの「月の光」から「ペーパームーン」、ベートーヴェンの「月光」とメドレーしていくシーンは素晴らしい。原作でも素晴らしいシーンだが、映画も良かった。これほどクラシック音楽がいっぱい出てくるエンタメ小説は恐らく世界で空前絶後だろう。恩田陸は「夜のピクニック」が好きで、その頃はよく読んだけど、その後ご無沙汰で久しぶりに読んだ。少し違和感がないでもないが、圧倒的なリーダビリティに心をつかまれてしまう。中国や韓国の出身者に辛口で、日本系のピアニストばかり活躍する構図だけど。
この小説は「浜松国際ピアノコンクール」(原作・映画では「芳ヶ江」と地名変更)をモデルに、コンクールに臨む若きピアニスト群像を描いている。「母の死をきっかけにコンサートをドタキャンして消えた天才少女」=栄伝亜夜(えいでん・あや)に松岡茉優。音大卒で一度はプロを目指したものの、現在は楽器店勤務で妻子もいて、年齢制限上限の28歳ながら「生活者の音楽」を志す高島明石=松坂桃李で、このキャストは知ってて読んだからイメージ通りである。この二人の名前が一番先にあるから、どうしてもドラマで重視されてきて、原作にはない二人の会話も描かれる。
そりゃまあいいけど、映画は原作と違うところが多い。それは当然で、原作通りに映像化したら時間がいくらあっても足りない。映画は「愚行録」の石川慶が脚本、監督、編集にすべてクレジットされている。石川監督は原作上巻350頁近くを占めるエントリーと第一次予選をほぼ飛ばしてしまい、映画はすぐに第二次予選になる。第三次予選はなかったことにされ、後半はすぐに本選である。うーん、大工夫だけど、ちょっと寂しいかな。もっと長くして、全編・後編で公開するやり方もあったと思う。
ただ映画化されて良かったことは、小説の中にしか存在しなかった架空の音楽、菱沼忠明(映画では光石研)が作曲した「春と修羅」を聞けること。名前の通り、宮沢賢治にインスパイアされた曲である。この曲には「カデンツァ」部分がある。カデンツァなんて言葉も知らなかったけど、独奏者が即興で演奏する指定部分だという。ここで一番最初に登場するのは、ジュリアード音楽院に通うマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)。亜夜の幼なじみで、コンクールで再会した設定は同じ。森崎ウィンは悪くないけど、王子様と言われるほどの存在感かというとちょっとビミョーか。
ピアノも持ってない養蜂家の子、日本人でありながらフランスに住んでいる風間塵(かざま・じん)はオーディションで選ばれた鈴鹿央士(すずか・おうじ)が演じている。見ているうちに、これが「風間塵か」という気持ちになっていくが、天衣無縫というイメージには合っている。しかし、自然の中で生きている養蜂家の子どもという意味では、僕のイメージとは少し違ってたかも。さらに、高島明石は原作では岩手を何度も訪れて賢治の世界を実感しようとするが、映画では岩手県在住に変更。「永訣の朝」の妹の言葉をイメージしてカデンツァを弾く。現実にはない曲を、映画では実際の課題曲として十分聴き応えがあるように映像化している。ここは映画最大の見どころ(聴きどころ)だ。
実際に作曲しているのは、藤倉大(1977~)という人で、国際的に活躍している作曲家である。4人が弾くカデンツァ部分も作曲している。この曲が非常に素晴らしい。恩田陸が原作でかなり細かくイメージを膨らませているところを、なかなかうまく出来ている。演奏しているのは、栄伝亜夜=河村尚子、 高島明石=福間洸太朗、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール=金子三勇士、風間塵=藤田真央という、僕は知らないけど国際的に活躍している若手ピアニストである。ホームページに載っているが、これが演じた俳優と風貌や経歴がよく似ている。CDも出ている。もちろん俳優が演奏しているわけはないから、実はこのピアニスト4人が真の主役と言うべきだろう。
ところで原作では出ているのに映画に出て来ない人物が何人もいる。亜夜とマサルの幼いときのピアノの先生は、原作だと「綿貫先生」という人だが、映画では亜夜の母になっている。これはやむを得ない変更だろう。審査員やコンクール出演者は別にして、出て来なくて残念だったのは、亜夜の付き添い的な「浜崎奏」である。原作ではかなりよく出てきて、例えば海を見に行くシーンも、亜夜、マサル、塵、奏で行っている。映画では高島明石と彼を取材している仁科雅美が入って5人で行く。この雅美がブルゾンちえみだから、イメージが違いすぎ。僕は原作で一番「奏」が好きなんだけどなあ。
映画では奏がいないから、亜夜は最後まで揺れていて、大丈夫かなという演出になっている。だからずっと付き添っている役の奏がいるのである。だけど、奏がいないことで、一度は挫折した亜夜が「音楽の神様」のギフトである風間塵を通して音楽を発見していくという物語構造が明確になっている。それはまあ、原作の「正しい解釈」なんじゃないか。でも原作では、マサルや高島や多くの人が関わる。それに一次予選、二次予選、三次予選と通して、12曲も弾いている。その一つ一つの予選を通して、亜夜は自分を取り戻してゆくのである。原作の方がやはり映画より納得できるかなあ。
(恩田陸)
恩田陸さんは子どもの頃からクラシックを聴いてきたという。特にピアノが好きで、モデルのコンクールも第4回から第10回までずっと聴きに行っているという話。実によくクラシック音楽を知っているなと判るような記述が楽しい。風間塵が三次予選でエリック・サティを何度も弾き、最後はサン・サーンスの「アフリカ幻想曲」って、こんな選曲をする人は実際にはいないだろうが、よく考えてあるのにビックリした。でも言葉だからいくらでも奥深く語れるところもあるだろう。知らない曲が多くて、いくつかYouTubeで聴いてみたけど、なんだかなあという感じがすることが多かった。
原作でも非常に印象的な、亜夜と塵が夜に連弾するところ。映画でもドビュッシーの「月の光」から「ペーパームーン」、ベートーヴェンの「月光」とメドレーしていくシーンは素晴らしい。原作でも素晴らしいシーンだが、映画も良かった。これほどクラシック音楽がいっぱい出てくるエンタメ小説は恐らく世界で空前絶後だろう。恩田陸は「夜のピクニック」が好きで、その頃はよく読んだけど、その後ご無沙汰で久しぶりに読んだ。少し違和感がないでもないが、圧倒的なリーダビリティに心をつかまれてしまう。中国や韓国の出身者に辛口で、日本系のピアニストばかり活躍する構図だけど。