ノーベル文学賞を受賞したアメリカの黒人女性作家トニ・モリスン。訃報をきっかけに、持っていた文庫本を読み始めて4冊目。「青い眼が欲しい」「スーラ」「ソロモンの歌」の次が「ビラヴド」(Beloved、1988)である。もっとも、実はその間に「タール・ベイビー」(1981、「誘惑者たちの島」の邦題で訳されたこともある)があるが、これは文庫化されてないのでスルーすることにする。
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「ビラヴド」は代表的傑作とされ、ピュリッツァー賞文芸部門を受賞した。今はハヤカワ文庫epiに入っているが、その前に集英社文庫に入っていた。吉田廸子訳。僕は1998年刊の集英社文庫を読んだ。20年も前になるのか。文庫本の帯には、映画化され1999年に公開予定と明記されている。でも実際には未公開でビデオ発売されただけだった。「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミが監督し、オプラ・ウィンフリーが主演している。それだけでも見たい感じだが、当時の映画賞レースでもほとんど話題にならなかった。どう考えても映画化は無理そうな題材なので、出来映えに問題があったのか。
「ビラヴド」は、正直言って僕は「参りました」という読後感だった。すごい傑作で敬服したという意味じゃない。全然判らなくて、読みづらい。大変すぎて参ったという意味である。500ページ強の本で、10日間ぐらい掛かった。読めども読めども進まない。エンタメ系じゃない、外国の本格文学は時間が掛かることが多い。最近だと「ボヴァリー夫人」がそうだったけど、あれは描写が細かすぎて進まないだけで、意味は十分に判る。「ビラヴド」は判らないのだ。いや、最後まで行くと判ることは判る。それでも判ったという感覚が持てない。傑作だとは思ったけど。
怪奇、幻想、SF小説など、いくつも読んでいるから、小説内がどんな設定でも構わない。人が空を飛ぶなら、そういう設定だと思って楽しんで読める。人が死んで蘇るなら、そういう設定と決めてくれれば理解はできる。この小説でも似たようなことがあるが、それは現実か幻想か、ある人にだけ見えるのか。本当かウソか全然判らない。アメリカ黒人は、もともと先住していたわけじゃなくて、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられたわけだが、奴隷制度はもちろん今では完全な悪である。書くまでもない前提だ。だから、奴隷制度の残酷さを歴史的、社会的に描き出すなら、それは理解可能だ。
「ビラヴド」に先立って、1983年にピュリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカー「カラーパープル」という小説があった。スピルバーグによって映画化され、オプラ・ウィンフリーがアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。(ウーピー・ゴールドバーグのデビュー作で、同じくノミネートされた。)アリス・ウォーカーはフェミニズム作家として知られ、「カラーパープル」は黒人社会内部の女性差別を告発した。過酷な運命を生きる黒人女性を描き衝撃を与えたが、「物語」的な文法上には理解しにくい点はなかった。だからスピルバーグが映画に出来たんだろう。僕もストレートに感情移入できた。
「ビラヴド」はあまりにも時間軸が錯綜し、何が事実で何が幻想なのかも判りにくい。だがそれは単なるレトリックではなくて、奴隷制を生きる中で身体的にも精神的にもズタズタにされた登場人物の語りなのだ。僕には判りにくかったけれど、訳者の解説を読むとアメリカでは「自分たちの物語」として熱狂的に受容されたことが判る。今までの小説と同じく、ここでも複数の人物の視点で語られる。いずれも一人称で、どんどん語る人物が変わってゆくので、読む方は混乱する。登場人物が忘れていること、語りたくないことは出て来ない。だから読者にも何が何だか判らない。
一応筋らしいことを書いておくと、ケンタッキー州にあった「スウィートホーム農園」は、周囲に比べて人道的な扱いをされていた。そこに来た14歳の黒人女性セテをめぐる5人の奴隷男性たち。セテはハーレと結ばれ、子どもも生まれる。そういう過去があった。当たり前に思えるが、他の農園では女奴隷は白人農園主の所有物で、子どもを産まされたりした。子どもは農園主の財産として売られるわけだ。農園主が亡くなった後で、未亡人は妹の夫(義弟)を呼び寄せるが、義弟の経営方針は違っていた。農園再建のため奴隷は売り払い、親子を引き離すことをためらわないタイプだった。
そういう過去が理解出来るのは終わり近くになってから。そして集団で逃走することが計画された。当時は北部へ逃れるルートが作られていた。しかし計画はうまく行かなかった。追い詰められたセテに悲劇が起こる。それは現実に会った事件がモデルなんだというが、捕まる前に母親が我が子を手に掛けたということらしい。亡くなった娘が「ビラヴド」と呼ばれる。今はオハイオ州で孤立して生きるセテと娘のデンヴァーの元に、農園で一緒だった「ポールD」が現れる。三人でサーカスを見に行った夜、家に戻るとビラヴドを名乗る娘が突然現れた。彼女は何者か、最後まで判らない。
黒人社会にある霊的な感覚がこの小説の背景にあるらしい。歌ったり踊ったりする文化の中で、ようやく最後の最後、第3部になって娘のデンヴァーに自立の可能性が生まれる。助けを求めること。それによって、セテを孤立したままにしていた黒人コミュニティが変容してゆく。しかし、筋を整理してしまうと、図式的な物語になってしまう。この小説は複雑な語りの構造を持ち、独特の文化的背景を前提にしている。なかなか外部の人間には理解しにくいと思う。あえて読まなくていいと思うが、こういう作品が評価されノーベル文学賞につながったという知識はあってもいいかも。
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「ビラヴド」は代表的傑作とされ、ピュリッツァー賞文芸部門を受賞した。今はハヤカワ文庫epiに入っているが、その前に集英社文庫に入っていた。吉田廸子訳。僕は1998年刊の集英社文庫を読んだ。20年も前になるのか。文庫本の帯には、映画化され1999年に公開予定と明記されている。でも実際には未公開でビデオ発売されただけだった。「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミが監督し、オプラ・ウィンフリーが主演している。それだけでも見たい感じだが、当時の映画賞レースでもほとんど話題にならなかった。どう考えても映画化は無理そうな題材なので、出来映えに問題があったのか。
「ビラヴド」は、正直言って僕は「参りました」という読後感だった。すごい傑作で敬服したという意味じゃない。全然判らなくて、読みづらい。大変すぎて参ったという意味である。500ページ強の本で、10日間ぐらい掛かった。読めども読めども進まない。エンタメ系じゃない、外国の本格文学は時間が掛かることが多い。最近だと「ボヴァリー夫人」がそうだったけど、あれは描写が細かすぎて進まないだけで、意味は十分に判る。「ビラヴド」は判らないのだ。いや、最後まで行くと判ることは判る。それでも判ったという感覚が持てない。傑作だとは思ったけど。
怪奇、幻想、SF小説など、いくつも読んでいるから、小説内がどんな設定でも構わない。人が空を飛ぶなら、そういう設定だと思って楽しんで読める。人が死んで蘇るなら、そういう設定と決めてくれれば理解はできる。この小説でも似たようなことがあるが、それは現実か幻想か、ある人にだけ見えるのか。本当かウソか全然判らない。アメリカ黒人は、もともと先住していたわけじゃなくて、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられたわけだが、奴隷制度はもちろん今では完全な悪である。書くまでもない前提だ。だから、奴隷制度の残酷さを歴史的、社会的に描き出すなら、それは理解可能だ。
「ビラヴド」に先立って、1983年にピュリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカー「カラーパープル」という小説があった。スピルバーグによって映画化され、オプラ・ウィンフリーがアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。(ウーピー・ゴールドバーグのデビュー作で、同じくノミネートされた。)アリス・ウォーカーはフェミニズム作家として知られ、「カラーパープル」は黒人社会内部の女性差別を告発した。過酷な運命を生きる黒人女性を描き衝撃を与えたが、「物語」的な文法上には理解しにくい点はなかった。だからスピルバーグが映画に出来たんだろう。僕もストレートに感情移入できた。
「ビラヴド」はあまりにも時間軸が錯綜し、何が事実で何が幻想なのかも判りにくい。だがそれは単なるレトリックではなくて、奴隷制を生きる中で身体的にも精神的にもズタズタにされた登場人物の語りなのだ。僕には判りにくかったけれど、訳者の解説を読むとアメリカでは「自分たちの物語」として熱狂的に受容されたことが判る。今までの小説と同じく、ここでも複数の人物の視点で語られる。いずれも一人称で、どんどん語る人物が変わってゆくので、読む方は混乱する。登場人物が忘れていること、語りたくないことは出て来ない。だから読者にも何が何だか判らない。
一応筋らしいことを書いておくと、ケンタッキー州にあった「スウィートホーム農園」は、周囲に比べて人道的な扱いをされていた。そこに来た14歳の黒人女性セテをめぐる5人の奴隷男性たち。セテはハーレと結ばれ、子どもも生まれる。そういう過去があった。当たり前に思えるが、他の農園では女奴隷は白人農園主の所有物で、子どもを産まされたりした。子どもは農園主の財産として売られるわけだ。農園主が亡くなった後で、未亡人は妹の夫(義弟)を呼び寄せるが、義弟の経営方針は違っていた。農園再建のため奴隷は売り払い、親子を引き離すことをためらわないタイプだった。
そういう過去が理解出来るのは終わり近くになってから。そして集団で逃走することが計画された。当時は北部へ逃れるルートが作られていた。しかし計画はうまく行かなかった。追い詰められたセテに悲劇が起こる。それは現実に会った事件がモデルなんだというが、捕まる前に母親が我が子を手に掛けたということらしい。亡くなった娘が「ビラヴド」と呼ばれる。今はオハイオ州で孤立して生きるセテと娘のデンヴァーの元に、農園で一緒だった「ポールD」が現れる。三人でサーカスを見に行った夜、家に戻るとビラヴドを名乗る娘が突然現れた。彼女は何者か、最後まで判らない。
黒人社会にある霊的な感覚がこの小説の背景にあるらしい。歌ったり踊ったりする文化の中で、ようやく最後の最後、第3部になって娘のデンヴァーに自立の可能性が生まれる。助けを求めること。それによって、セテを孤立したままにしていた黒人コミュニティが変容してゆく。しかし、筋を整理してしまうと、図式的な物語になってしまう。この小説は複雑な語りの構造を持ち、独特の文化的背景を前提にしている。なかなか外部の人間には理解しにくいと思う。あえて読まなくていいと思うが、こういう作品が評価されノーベル文学賞につながったという知識はあってもいいかも。