歴史学者(日本現代史)で、立教大学名誉教授のの粟屋憲太郎先生が亡くなった。1944.6.11~2019.9.11、75歳。僕は月ごとに訃報をまとめて書いているけれど、その時は「亡くなった人物」は「歴史的人物」と考え「敬称略」で書くようにしている。だけど、粟屋先生は単に講義を受けたという以上のお世話になっているので、やはり「先生」と表記することにしたい。
僕が大学2年生の時に、それまで神戸大学助教授だった粟屋先生が立教大学助教授として赴任してきた。翌年の3年、4年とゼミに出て、その後大学院でも直接の担当教員だった。先日、教育実習について書いたが、その頃から実習校に大学の指導教員が顔を出すようになっていた。僕は母校の都立白鴎高校で実習をしたが、「研究授業」に粟屋先生に出席して貰った。その時に津田塾大の学生もいて、津田塾からは井上幸治先生が見えた。立教大学で長くフランス史を担当し、故郷秩父の「秩父事件」研究でも名高い。実習見学後はずっと井上さんと上野で飲んだんだよと後で聞いた。
けっこうよく講義の後で飲んだ思い出がある。学部生の時はともかく、院生時代は毎週のように行ってたかもしれない。なんだか勉強の話より、飲んだ記憶ばかり思い出すのが、不思議というか、まあそんなものかもしれない。池袋西口のロサ会館も行ったと思うが、それより大学のすぐそばにあった「東江楼」によく行った。日本初の客家(はっか)料理店として有名で、東洋史の教授で客家出身の戴国煇(タイ・クォフェイ)先生が大体いた。古代史の野田嶺志先生や大学院に講師で来ていた神田文人先生などもよく一緒だった。そんな時の楽しさを思い出すのである。
その頃の写真がないかと思って「昭和の政党」の月報を探し出した。ゼミ旅行なんかの写真もあるかと思うが、どこか判らない。「昭和の政党」は小学館が企画した「昭和の歴史」の第6巻で、政友会と民政党が戦った昭和初期の政党史を描いている。「選挙による政党政治」が「憲政の常道」と呼ばれた時代の成立と崩壊を扱い、今も必読の本だろう。僕はもともと選挙や政党に関心があるが、今も時々選挙分析を書いているのは、粟屋先生の影響なのかもしれない。
(同じく「月報」より。内田健三氏と語る)
しかし、粟屋先生の研究分野で一番知られているのは、「東京裁判」の実証的研究だろう。原史料にあたって「極東軍事裁判」を研究することは、1970年段階ではまだ珍しかった。当時はアメリカで情報公開が進みつつあり、何度も渡米して占領軍の史料に直接アクセスした。第二次世界大戦期の公文書はその頃から開示され始め、その利用による研究の先頭のひとりだっただろう。資料集も数多く刊行していて、その面の貢献も大きい。特に有名なのは、「なぜ昭和天皇が東京裁判で訴追されなかったのか」を憶測ではなく、検事局の資料を基に実証した研究だろう。東京裁判研究は朝日ジャーナルに連載され、後に講談社選書メチエから刊行された「東京裁判への道」(上下)に結実している。
その研究を基にNHKが取材した「NHKスペシャル」が「東京裁判への道」(粟屋憲太郎、NHK取材班著、1994、NHK出版)として書籍化されている。この番組は放送文化基金賞のテレビドキュメンタリー番組「本賞」受賞番組と帯に出ている。細かくなるから内容は触れないが、このような番組がかつては放送され受賞していたのである。しかし、その頃から「東京裁判史観」などという架空の史観を「批判」する人々が現れてきた。歴史学の世界でいくら東京裁判を実証的に研究しても、実証抜きに「政治問題」として扱う勢力は一向に減らなかった。何故だろう。僕が大学で身につけた一番大切なことは「実証の重要性」である。最近は「リベラル」派に、典拠を示さず語る人が増えている。
大学院の前期を終えて、浪々としていた時期に大学を通して中学の非常勤講師の口を紹介された。これも粟屋先生からの紹介があった。翌年、採用試験を高校日本史で合格していたが赴任先がなかなか決まらなかった。その時に中学で採用されたのは、前年の講師経験があったからだろう。その年の秋に結婚を控えていたから、就職の必要があった。その結婚式の祝辞もお願いしているから、「恩師」と言うしかない。その後、体調を崩すときが多くなり、まとめるつもりで時間切れになった研究テーマが多いかもしれない。残念なことだった。
大学を定年退職するにに合わせて、大きな会が開かれた。10年前のその時が最後になった。その時の挨拶で、伊藤隆氏からの手紙に触れていた。東大国史科で近現代史専攻だった伊藤隆氏は、粟屋先生と考え方が違う。そこでどのような関わりがあったのか、裏話的なエピソードも交えて語りながら、それでも年賀状を出していたという。退職を伝えた返信に、確か封書で健康を念じる言葉を貰ったという話だった。政治的な立場を超えて、若い頃からのつながりもあったということか。実は僕が卒論を書いていたときに、母親が乳がんで入院していた。その時期はけっこう大変だったわけだが、その母が90を過ぎてまだ元気なのに、母より若い多くの先生が去って行く。「老少不定」とは言うものの。
僕が大学2年生の時に、それまで神戸大学助教授だった粟屋先生が立教大学助教授として赴任してきた。翌年の3年、4年とゼミに出て、その後大学院でも直接の担当教員だった。先日、教育実習について書いたが、その頃から実習校に大学の指導教員が顔を出すようになっていた。僕は母校の都立白鴎高校で実習をしたが、「研究授業」に粟屋先生に出席して貰った。その時に津田塾大の学生もいて、津田塾からは井上幸治先生が見えた。立教大学で長くフランス史を担当し、故郷秩父の「秩父事件」研究でも名高い。実習見学後はずっと井上さんと上野で飲んだんだよと後で聞いた。
けっこうよく講義の後で飲んだ思い出がある。学部生の時はともかく、院生時代は毎週のように行ってたかもしれない。なんだか勉強の話より、飲んだ記憶ばかり思い出すのが、不思議というか、まあそんなものかもしれない。池袋西口のロサ会館も行ったと思うが、それより大学のすぐそばにあった「東江楼」によく行った。日本初の客家(はっか)料理店として有名で、東洋史の教授で客家出身の戴国煇(タイ・クォフェイ)先生が大体いた。古代史の野田嶺志先生や大学院に講師で来ていた神田文人先生などもよく一緒だった。そんな時の楽しさを思い出すのである。
その頃の写真がないかと思って「昭和の政党」の月報を探し出した。ゼミ旅行なんかの写真もあるかと思うが、どこか判らない。「昭和の政党」は小学館が企画した「昭和の歴史」の第6巻で、政友会と民政党が戦った昭和初期の政党史を描いている。「選挙による政党政治」が「憲政の常道」と呼ばれた時代の成立と崩壊を扱い、今も必読の本だろう。僕はもともと選挙や政党に関心があるが、今も時々選挙分析を書いているのは、粟屋先生の影響なのかもしれない。
(同じく「月報」より。内田健三氏と語る)
しかし、粟屋先生の研究分野で一番知られているのは、「東京裁判」の実証的研究だろう。原史料にあたって「極東軍事裁判」を研究することは、1970年段階ではまだ珍しかった。当時はアメリカで情報公開が進みつつあり、何度も渡米して占領軍の史料に直接アクセスした。第二次世界大戦期の公文書はその頃から開示され始め、その利用による研究の先頭のひとりだっただろう。資料集も数多く刊行していて、その面の貢献も大きい。特に有名なのは、「なぜ昭和天皇が東京裁判で訴追されなかったのか」を憶測ではなく、検事局の資料を基に実証した研究だろう。東京裁判研究は朝日ジャーナルに連載され、後に講談社選書メチエから刊行された「東京裁判への道」(上下)に結実している。
その研究を基にNHKが取材した「NHKスペシャル」が「東京裁判への道」(粟屋憲太郎、NHK取材班著、1994、NHK出版)として書籍化されている。この番組は放送文化基金賞のテレビドキュメンタリー番組「本賞」受賞番組と帯に出ている。細かくなるから内容は触れないが、このような番組がかつては放送され受賞していたのである。しかし、その頃から「東京裁判史観」などという架空の史観を「批判」する人々が現れてきた。歴史学の世界でいくら東京裁判を実証的に研究しても、実証抜きに「政治問題」として扱う勢力は一向に減らなかった。何故だろう。僕が大学で身につけた一番大切なことは「実証の重要性」である。最近は「リベラル」派に、典拠を示さず語る人が増えている。
大学院の前期を終えて、浪々としていた時期に大学を通して中学の非常勤講師の口を紹介された。これも粟屋先生からの紹介があった。翌年、採用試験を高校日本史で合格していたが赴任先がなかなか決まらなかった。その時に中学で採用されたのは、前年の講師経験があったからだろう。その年の秋に結婚を控えていたから、就職の必要があった。その結婚式の祝辞もお願いしているから、「恩師」と言うしかない。その後、体調を崩すときが多くなり、まとめるつもりで時間切れになった研究テーマが多いかもしれない。残念なことだった。
大学を定年退職するにに合わせて、大きな会が開かれた。10年前のその時が最後になった。その時の挨拶で、伊藤隆氏からの手紙に触れていた。東大国史科で近現代史専攻だった伊藤隆氏は、粟屋先生と考え方が違う。そこでどのような関わりがあったのか、裏話的なエピソードも交えて語りながら、それでも年賀状を出していたという。退職を伝えた返信に、確か封書で健康を念じる言葉を貰ったという話だった。政治的な立場を超えて、若い頃からのつながりもあったということか。実は僕が卒論を書いていたときに、母親が乳がんで入院していた。その時期はけっこう大変だったわけだが、その母が90を過ぎてまだ元気なのに、母より若い多くの先生が去って行く。「老少不定」とは言うものの。