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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

このとんでもない高知の私立中

2012年06月06日 21時20分59秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと驚くべき記事を新聞で読んだ。ネットで新聞を検索しても、僕が「とんでもない」と一番思った点が出ていない。見逃している人も多いかと思い、あえて紹介しておく次第。

 新聞記事は朝日新聞(6月6日付第3社会面)にある、「中学に賠償命令 高知地裁『自殺調査を怠る』」と言う記事である。学校は高知学園が経営する私立高知中。
 産経新聞のサイトから裁判の内容を見てみると、
 「2009年に自殺した高知市の中学1年の男子生徒の両親が、いじめが原因だった疑いがあるのに調査を怠ったとして、学校法人高知学園と当時の担任教諭ら2人に計800万円の損害賠償を求めた訴訟」で、判決は学校側に190万円の慰謝料を認めるというものだった。
 両親は「死亡は自殺によるものという事実を伏せて、学校内で実施した調査は不十分」と主張。学校側は「調査は十分だった」と反論し、自殺の非公表は他の生徒が受ける影響の大きさを考慮したためとした。

 遺書はなかったけれど、「通夜の際に友人が『先輩が(男子生徒に)死んだらいいと言っていた』と手紙で遺族に伝えた」という事実などがあったので、両親はいじめがあったのではないかと学校に全校調査と報告を求めた。(当然でしょうね。)しかし、学校は自殺の事実を伏せて一部の生徒からの聞き取りにとどめた。

 判決は「自殺の事実を多数の生徒に伝えたうえで、いじめや嫌がらせの有無を全校的に調べる義務が学校にあった」と認定した。このような義務が裁判で認定されるということは、今では当たり前のことで各学校、各教員はきちんと認識していなくてはいけない。

 ところで、これだけだったら、とんでもないことだけど驚くほどでもないだろう。まあ日本のどこかには、いじめで自殺する子供もいて、きちんと対処しない学校もあって、裁判になることも残念ながら時にはあるかと思う。

 とんでもないことが書かれているのは、そのあとの新聞記事。
 さらに担任教諭が霊媒師の話として、「男子生徒は3年前から死ぬことに興味を持ち、今は騒ぎになったことを後悔している」などと伝えたことも、「生徒の人格の冒瀆で、魂の平安を願う両親への配慮を欠いた」と判断した。

 おいおい、この学校では生徒がなんで自殺したのかを、霊媒師を使って調べようとしたのかい。ってことは、霊媒師に金を払って、「死んだ生徒の霊」を呼び出してもらった、ということだよね。そしたら、いじめ自殺ではなくって「死への興味」だったんだと霊媒師を通して生徒の霊が語った、と。

 「霊」というものがあるのか、「死後の世界」があるのか、「霊媒師」が死後の霊にコネクトできるのかなどの問題には、人それぞれ様々な考え方もあるかと思うけど、この問題に関して言えば「呆れ返ってものも言えない」というしかない。

 生徒が自殺したという悲しい出来事があり、いじめかどうか、学校にも責任があるかどうか、いろんなことがありうるわけだけど、誰が今の日本で「生徒の霊を霊媒師に呼び出してもらって聞いてみよう」などと思うんだ。この学校と教師は、とんでもないとしか言いようがない。
コメント (4)
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天安門事件を忘れない

2012年06月06日 00時44分20秒 |  〃  (国際問題)
 野田政権の改造の話なんか書くつもりはなかったのに、つい「政治解説」みたいなことを書いてしまった。こっちも書き忘れないために、やっぱり書いておくことにする。

 「6月4日」がまためぐってきた。1989年6月4日、北京天安門広場で起こったこと。僕はそれを未だに忘れることができない。多くの人にとってもそうだろう。この年は、秋に「東欧革命」が起こりそれで記憶される年となった。当時「ソ連」は解体に向かいつつあり、世界は「冷戦終結」と言っていた。しかし、アジアでは「冷戦」は現在までずっと続いている

 今年も香港では追悼集会が開かれ、過去最多の18万人以上が参加したという。「人々はろうそくを手に、中国政府が「反革命暴乱」と位置づける事件の評価見直しを訴えた。集会には、香港の中高生グループ約300人が初参加した。」と読売新聞に出ている。香港では集会がまだ開けるが、もちろん北京では開くことができない。

 当時の学生リーダーで、現在は台湾にいる王丹が来月初来日をするという。アムネスティが主催して、「天安門事件 学生リーダー 王丹 初来日!トーク & 映画『亡命』上映会 ~13億・中国の民主化と見えない壁~」という集会が開かれる。7月5日(木)19時~21時、東京の中野ZERO小ホール。

 ミャンマーのアウン・サン・スー・チーが国会議員に当選し、ヨーロッパをまもなく訪問する。ノルウェイも訪問し、1991年に受賞したノーベル平和賞の演説もできるだろう。23年という時間が経ったけれども。2010年に受賞した劉暁波もいつの日にか、オスロを訪れる日が来なければならない。それはいつの日だろうか。

 「天安門事件の再評価は避けられない」と言われてはいる。国務院総理の温家宝は、胡耀邦(腐敗に厳しく対処し、天安門事件直前に腐敗を告発して憤死したことへの追悼行動からデモが広がった)に抜擢された人物で、趙紫陽総書記が天安門広場を訪れ「来るのが遅すぎた。申し訳ない」と語った時にも同行していた。その後自己批判して生き延びたものの、政治改革の必要性は認識していて、任期中にも天安門事件再評価を打ち出すのではないかという期待もないではなかった。

 しかし、そういうことはできないようである。それより、党指導部は、薄熙来問題以来、深刻な対立状態でとてもそんなことが出来るような状態ではないという観測もあるようだ。よく判らないけど、もうそんな「国慶節の天安門上の序列をよく見て党内情勢を推測する」みたいなことに、僕は関心がない。(昔はソ連や中国、あるいは自民党や社会党の派閥に関心があった。イデオロギーというより「人類学」的に。)

 それより、国内がもめているときは、軍部の発言力が強くなるし、「排外的主張」をするようになるという政治の一般法則が心配なのである。フィリピンとのスカボロー礁(中国名・黄岩島)をめぐる領有権争いが何かきな臭い感じがしてならない。冷静な議論もあるようだが、排外的な主張をあおる向きもある。どういう展開になっていくのか、注意深い関心を持っている。

 日本との閣僚訪問なども「世界ウィグル会議」開催をきっかけに(だと思うんだけど)、延期や中止が相次いでいる。この「世界ウィグル会議」は「民族自決権」を求めているが、中国は国家分裂をもくろむ組織として対話を拒否している。傘下の「日本ウィグル会議」という組織もある。日本の支援組織は右派が主導していて、安倍晋三らが中心となっている。今回も会議後にラビア・カーディル主席らを靖国神社に案内している。そういうのは、ウィグル民族運動には不必要ななことで、どうして自分たちの主張を押し付け中国との対立をあおるようなことをするのだろうか。それでは「支援」とは言えない。

 それはともかく、日本は言論・集会の自由がある。これは中国やアメリカとの悲惨な戦争の結果、日本国民がようやく享受できるようになったもので、「二度と侵略戦争をしない」という現在の日本の方針を守るために必須なものである。国民の自由を保障することは、「日本の核心的利益」である。それを民主党政権も、自民党右派政治家も、中国の指導部も、みなきちんと認識しているだろうか。

 趙紫陽元総書記は、結局天安門事件以後、自宅軟禁を解かれることなく2005年に死去した。「現代の張学良」である趙紫陽は、死後に回想録が必死の努力で公刊された。「趙紫陽極秘回想録」(光文社)があり、ノーベル平和賞の劉暁波には「天安門事件から08憲章へ」(藤原書店)がある。どちらも買うと高い厚い本だけど、是非読むべき本。中国の未来を考えるためには。
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「生活保護バッシング」の問題

2012年06月04日 21時50分55秒 | 社会(世の中の出来事)
 「人気お笑い芸人」の母親が生活保護を受けていたという問題で、25日に記者会見があった。その前後から冷静な議論ではなく、大騒動になっている。という話なんだけど、僕はそのネットの議論を全然見ていない。この問題に限らず、あまり見ないようにしている。大体、「人気お笑い芸人」だという「次長課長」を知らない。そんなに有名なコンビなの?まあ、テレビはほとんどニュースとスポーツしか見ないし。それはともかく、議論の本質がずれたまま、政治的に利用されているようで、ちゃんと書いておきたいと思っていた。しかし、生活保護についてよく知らないので、なかなか書けない。書けないままにするより、少し情報提供でいいかなと思って、書いておく。

 まず、僕の基本的理解。「生活保護」受給者は増大しているけれど、不要なのにもらっている人より、必要なのに受けられていない人の方が圧倒的に多いはずだと思う。どんな制度であっても、また制度改正をいくら行っても、それを「悪用」されることは完全には防げないだろう。「悪用を完全に防ぐ」ためには、「善用」することも困難なほどに面倒な申請手続きと、情報の行政への集中が必要である。だから、「悪用」を防ぐ手だてを考えることも大事だけど、その制度が「善用」されているかをまず考えなくてはならない。僕が「受けられていない人の方が圧倒的に多い」と判断するのは、ホームレスの人々や「孤立死」する人がたくさんいるという事実があるからだ。

 データを見てみると、95年に88万人だった受給者は、2012年3月現在で210万人。今年度の生活保護費は3兆7千億円。2010年度に明らかになった不正受給額は、130億円だという。

  生活保護問題対策全国会議のブログに載せられている、「生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明」(5.28)には、以下のように出ている。

①雇用の崩壊と高齢化の進展が深刻であるのに雇用保険や年金等の他の社会保障制度が極めて脆弱であるという社会の構造からして、生活保護利用者が増えるという今日の事態はて当然のことであること、
②生活保護制度利用者が増えたといっても利用率は1.6%に過ぎず、先進諸国(ドイツ9.7%、イギリス9.3%、フランス5.7%)に比べてむしろ異常に低いこと
③「不正受給」は、金額ベースで0.4%弱で推移しているのに対して、捕捉率(生活保護利用資格のある人のうち現に利用している人の割合)は2~3割に過ぎず,むしろ必要な人に行きわたっていないこと(漏給)が大きな問題であることなど,生活保護制度利用者増加の原因となる事実が置き去りにされている。

 そういう基本的な問題もあるんだけど、今回のケースがなんだか嫌な推移をしているのは、「親族の扶養」の問題が絡んでいるからである。親戚はもとより、親子関係(は原則扶養の義務はあるのは当然だけど)に、扶養できるかどうか行政が踏み込んで行くというのは、どうもいい気がしない。小宮山厚労相は、25日、「親族側に扶養が困難な理由を証明する義務を課す生活保護法改正を検討する」と述べている。これはすごく怖い話ではないか。

 聞かれて全然かまわないという親子関係なら、初めから仕送りしているだろう。扶養の気持ちがあっても、忙しくて(残業や夜勤続きで)連絡もつかないという人はたくさんいるだろう。親は田舎で一人暮らし、子は都会で働いていて、親は携帯電話がない、子供は固定電話がない、ハガキ一枚書けばいいわけだけど、字を書くのもおっくうだという、別に関係が悪くなくてもそういう親子も多いのではないか。もちろん、親から逃れるために、故郷を捨て東京に出ている子もいるだろう。それより、親の側が、生活保護を受けないとやっていけないくらい貧困、病気になっても、子供の方で面倒な書類を書かないといけないと考えただけで、「申し訳ないから初めから申請しない」という例が増えることになるだろう。

 昨日ニュースでやっていたが、相模原市の場合、1万件くらい扶養できるかの調査を送って、返信されてくるのは300通くらいしかないと言ってた。公務員の数を劇的に増やしでもしない限り、家族が扶養できるかの調査なんかできるわけがないだろう。
 この扶養問題についても、先の生活保護問題対策全国会議のブログにある、「扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために」(5.30)が諸外国の例もあげながら詳しく解説している。また、そのブログには、緊急記者会見の動画もアップされている。

 先の緊急声明の最後の方を引用しておく。
 「今年に入ってから全国で「餓死」「凍死」「孤立死」が相次いでいるが,目下の経済状況下で、雇用や他の社会保障制度の現状を改めることなく、放置したままで生活保護制度のみを切り縮めれば、餓死者・自殺者が続発し、犯罪も増え社会不安を招くことが目に見えている。」
 細かい論点とデータなどは、リンク先のブログを是非見て下さい。
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最高検の「再審対策会議」批判

2012年06月03日 23時27分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 3日付朝日新聞、「検事集め再審対策」と言う記事。凄いことが書いてあった。最近、再審を認める決定が相次いでいることを踏まえ、最高検は再審請求審を担当した検事を集めて会議を初めて開くという。「確定した有罪判決が覆れば、検察や警察は批判を受ける。『再審開始が増えて捜査機関への信用が低くなれば、治安維持の点から問題だ』という認識が観察内部にはある。」とある。

 つまり、こういうことだろうか。「自分たちが批判を受けたくないから、『治安維持』をタテマエにして、無実の人もそのまま捕まえておくのだ。死刑囚が無実を訴えても、『治安維持』の観点から再審は認めるべきではないのだ」ということではないか。

 再審に至る事件には、捜査に手落ち、あるいはそれ以上の「証拠偽造」があることが多い。再審請求審で指摘された捜査の間違いを率直に反省して、今後の捜査に生かす、そのための会議だというなら、これは開く意味もあるだろう

 再審開始をどうやって阻止するかを相談する会議では、公益の代表者として発想が逆転している。

 2010年9月に、大阪で任意取り調べを受けた被疑者が暴言を浴びせられたという事件が起こった。事情聴取に際して「殴るぞ、お前」、「お前の人生むちゃくちゃにしたるわ」、「手出さへんと思ったら大間違いやぞ」、「考えてもの言え、こら! お前、警察なめたらあかんぞ、お前!」といった暴言が明るみに出たのは、被疑者がICレコーダーで録音していたからである。(取り調べを担当した警官は脅迫罪で立件された。)小沢一郎政治資金事件でも、秘書だった石川知裕代議士の任意取調べをICレコーダーで録音していた。そうしたら、調書と録音に違いがあったことが判った。これは皆知っているだろう。

 逮捕されたらともかく、任意取り調べだったら自分で録音しておいて身を守らないといけない。これが「捜査機関への信用が低くなる」理由である。つまり、捜査の「可視化」、それなくして捜査機関への信用は高くならない。

 長く再審を訴え、支援運動も広がっている事件は、みなそれだけの理由があるのである。検察が「難くせ」を付けなければ、もっと早く無実を証明できた。そういう事件ばかりである。「治安維持」の観点からは、無実の人が早く無罪になるような社会こそ、国家制度への信用が増すはずである。
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今村昌平の映画を見る③60年代の傑作から80年代の作品へ

2012年06月03日 01時02分12秒 |  〃  (日本の映画監督)
 今村昌平の映画を全部見たら疲れた。(9分11秒の短編を集めた「セプテンバー、11」を除く。)2作目の会社企画「西銀座駅前」を除き、実に面白い作品ばかりだ。(ちなみに、東京メトロが銀座線と丸ノ内線しかなかったときは、丸ノ内線の駅は「西銀座」と言った。日比谷線が両者をつなぐ位置にできた時に、合わせて銀座駅と改称された。)今村昌平はやはり日本映画史で最高の映画監督だと思う。素晴らしい作品ばかりで、一つが傑出している「富士山型」ではなく、山頂が並び立つ「八ヶ岳型」なので、日本映画歴代ベストテンなどを企画すると票が分散してしまう。いずれ小津や溝口に匹敵する映画監督という評価が定着するだろう。

 最高傑作はまぎれもなく「神々の深き欲望」(68)。これは復帰前の沖縄で長期ロケした南島神話みたいな作品で、神話的共同体が製糖資本、観光資本によりいかに変容していくかを、壮大な規模で描き出した作品である。名優、怪優が入り乱れ、登場人物の関係も複雑(性的にも)だけど、壮大な映像の大傑作。続いて、「赤い殺意」(64)が大長編で、「にっぽん昆虫記」(63)とあわせて東北の土俗的な世界から出てきた「女の一代記」みたいな作品。この3作はあまりにも壮大、複雑な世界で、完全に「日本人論」「日本文化論」を展開することになってしまう。だから今は名前を挙げるだけにしておく。
(「赤い殺意」)
 今村昌平の作品は、このように「近代日本に取り残された」土俗的な世界で生きる女たちの性と民間信仰を扱うことが多い。しかし、本人は東京の中産階級の出身で、下北半島出身というホントの土俗世界を知っている川島雄三監督(「幕末太陽傳」など)からは、おまえの世界は頭で作ったもので、伝統社会とはそんなものではない、と言われていたという。実際に地方で生まれた作家は、例えば宮沢賢治や寺山修司を思い出しても、土俗的な世界に解放を求めるよりも、「モダン(近代)への憧れ」が作品を魅力的なものにしている。今村昌平の映画には、そういう「モダンへの憧れ」がほとんどないのが特徴だが、その辺の逆説が興味深い。

 67年の「人間蒸発」は実際に行方不明になった人を婚約者とともに追う設定の記録映画。記録映画となっているが、どこに仕掛けがあるかは判らない。そこがスリリングだし、当時の風景は面白いが、なんだか判らないという感じ。横須賀で米兵相手にバーをしている女性へのロングインタビュー「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」(70)も興味深いけど、やはりよく判らない。吉倉市という架空の地名で、被差別の出身で小さなころからの人生行路とニュース映画への意見が交錯する。面白いけれど「判らない」というのは、これをどう位置付けていいか、どうもしっくりこないのだ。庶民そのものをずっと追って行っても、そんなに面白いものにならないのかもしれない。

 だからドラマの仕掛けがいるのであって、「赤い殺意」で妻が襲われる事件のようなものである。あるいは快作「豚と軍艦」(60)の米軍残飯で養豚するヤクザという設定などもそうである。この映画は実際にたくさんの豚を町に走らせるラストシーンがすごくて、予算オーヴァーらしいけど昔はすごかったなと思う。主演の長門裕之も、丹波哲郎や小沢昭一もみんな若い。後で長い作品ばかりになるけど、108分という時間で描き切った傑作である。米軍とのコネで残飯を入手し、豚を飼うヤクザという設定は、もちろん日本社会そのものの風刺だ。60年安保の年に作られた思想史的意味は大きい。

 60年代の白黒の傑作群を見ると、80年代以後の大作はどうも薄味になった。「ええじゃないか」(81)は150分もあるが、世界が大きすぎて人物が図式的になった。両国橋際の見世物小屋を再現するセットはすごいけど。江戸幕府、薩摩藩、列強、生糸資本などの世界を、米国から戻った漂流民泉谷しげる(上州出身)、今は見世物小屋に出ている昔の妻桃井かおりを中心に多くの人物が動き回る。
(「ええじゃないか」)
 最終的に「ええじゃないか」の大乱舞になり、これぞ庶民の革命的エネルギーの爆発だというような発想なんだろう。しかし、「ええじゃないか」が庶民の革命と言うには無理があるし、幕府が両国橋を渡らせないように弾圧するという設定も無理。「ええじゃないか」踊りは、バスティーユでも血の日曜日でもないでしょ。結局、幕末段階で庶民のエネルギーに革命を幻想するという最初の発想に無理がある。でも、草刈正雄という琉球出身の登場人物を作って、薩摩対琉球をきちんと描いているところなど、やはりさすがである。幕府対薩長だけしか語らない幕末ものを一頭抜いている。

 83年のカンヌ最高賞「楢山節考」、僕はタルコフスキー監督の最高傑作「ノスタルジア」が受賞するべきだったと思うんだけど、それはともかく、共同体の凄絶なルールを生き抜く村人を、動物や虫の視点で描く。ユーモラスな描写も多いし、すぐれた作品だと思うけど、見ていてつらくなるような映画である。深沢七郎の原作自体が、「近代」と無縁なところから出てきた「残酷な童話」のようなところがあった。しかし、映画は俳優の肉体を見続けなければならない。ここまでリアルだと、すごく辛い。村の掟に従って生きるしかない時代なんだけど、救いのようなものを描かないところがすごい。
(「楢山節考」)
 87年の「女衒」(ぜげん)は、逆に悪者が出てこない。女を売り買いするのが「女衒」だから否定的人物のはずだが、快男児すぎる。明治の日本で、故郷で食えない女が海外の娼婦になる。それが日本進出の先兵となり、やがて貿易や日本軍も出ていける。だからお国のために海外進出していると心底信じていた男。だが本当に日本が成長すると、「醜業婦」を海外に送るのは国辱としてお国に切り捨てられる。壮大な勘違い男の一代記である。みんな楽しそうに演じていて、面白い。だけど、映画の中に否定的な契機が描かれていない。否定すべきは主人公の生き方そのもので、そうすると映画自体作る必要はなくなる。困ったねと言う映画。今村の目論見通り、もっと早く「サンダカン八番娼館」が映画化されたころ(74年)に映画になっていたら、だいぶ印象が違ったかなと思う。

 「黒い雨」(89)を作ってカンヌで受賞できなかった後、しばらくまた映画がない。最後の3本は、息子の天願大介が脚本に加わり、軽い味の作品に仕上がっている。「うなぎ」(97)はカンヌ最高賞だけど、軽い感じがしてしまう。最後の「赤い橋の下のぬるい水」(01)とあわせて、役所広治、清水美砂のコンビである。見直してみると、やっぱり面白かった。坂口安吾原作の「カンゾー先生」(98)は、柄本明がずっと走っている。こんな走る映画だったか。戦時中になんでも肝臓炎と診断してしまう地方医者の話で、捕虜虐待、731部隊、原爆、鯨などずいぶん多くのテーマが伏在していたことに改めて驚いた。麻生久美子が素晴らしい。最後の3本の中では、当時から「カンゾー先生」が好きで、それは見直しても変わらなかった。今村監督の作品は、できれば大きな画面で見るべきものだと思う。人間とはなんと奥深く、判らない存在なのだろうという思いが、改めてしている。
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