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神奈川県の西部にある「小さな町」で暮らす私.
日々の出来事、見たこと、感じたこと、思ったことを綴っていきます。

「風外道人ゆかりの天神堂」~~町内探訪~~♪

2023-03-05 | まち歩き
ここ数か月~~、長男の時間のある時にいっしょに「町探訪」をしています。一人ではちょっと怖い場所でも、彼がいっしょだと安心なので~(笑)

今日は「風外さん=ふうがい」の住んでいたという場所へ~!
    
町の観光パンフレットによると~、
「1627年風外という坊さんが住み着きました。真鶴の風景が大変気に入り、子供と遊んだり、だるまの絵や布袋図を画くことが得意でした。また、天神様をまつり、石のほこらを作りました 」

       

歴史散策というHPをみたら、↓こんなことが書いてありました。
『 真鶴に至った時、風外は村人に念仏を依頼された。網元、五味伊右衛門が、死者の葬送に読経する僧がおらず困っていた。石切り場の奉行、小河織部正良が岩場から足を踏み外し、海に落ちて死んだということであった。柩に向かい風外が舎利礼文を三度唱え、喝を入れると、死者が蘇生した。村人たちは驚き、風外を崇め、風外の逗留を願った。風外は網元、五味伊右衛門の願いにより、五味家の菩提寺、水上山自泉院の裏山に居住することになった。天神堂に住み、絵を描き、石像を彫り、三ッ石に弁財天を祭り、貴船神社縁起を書くなど、村の振興に努めた。伊豆半島地震の折には、五味伊右衛門、青木太兵衛らと協力し、地震による負傷者救済、家屋の再築など、真鶴の復興に尽力した。そんな風外の所へ、小田原稲葉家の家老、田辺信吉、吉利支丹信者、奥住新左衛門、かっての主人、大道寺直次、水戸中納言頼房、旧友、鈴木正三が訪ねて来たりした。風外八十歳の正保四年(一六四七年)五月、小田原に大地震が起こり、小田原をはじめ、藩内の神社仏閣の屋根は勿論のこと、石垣や建物が、地震の為に崩れ落ちた。真鶴にいる風外のもてへ、大雄山最乗寺から、善開大徳と鉄牛慧覚が最乗寺修復の依頼にやって来た。風外は善開と鉄牛が襖絵や天井絵を描くための手伝いなら、小田原へ行っても良いと返答し、十七年間滞在した真鶴を去った。』

風外さんが住んでいたという天神堂跡に、戦後に建てられたと思われる古い家があります。(↑一枚目の写真)
「老人憩いの家」として、この地区の老人たちが集まって楽しむ場所のようですが・・・。「風外堂」と呼ばれています。
今でも使っているんだと思います(プロパンガスのボンベとか、お掃除用具なんかがありました)

風外堂の横にあった「碑」~~真鶴産の小松石だと思います。
    

傾きかけた石の祠みたいなものが・・・、小さな「達磨」も置いてあります。
      

風外堂への登り口に、立ち入り禁止になっていますが「祠」が~~!
      
雑草の中に埋もれています(苦笑)

実はこの風外堂のある場所は、小学校の頃に住んでいた家と近いんですが・・・その頃はまったく興味も無かったので、「風外さん」~~という言葉は知っていましたが、何のことかも分からず行ったこともありませんでした(苦笑)。
今頃になって「へぇっ~~!」です~~~(笑)