prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

民主党の演説

2006年01月20日 | Weblog
民主党が有楽町マリオンの前で演説してました。
あまりまじめに聞かなかったけれど、自民党の誰それ議員が国民はバカだと発言していた、けしからんとか何とか。

ヒューザーの小嶋社長の証人喚問がらみで得点したとみてのことらしい。大した得点とも思えませんけど。
だけど小嶋人脈って、かなりすごいのですね。

この国の闇を示す「小さな記事」

オジャマ弁護士は誰!?「筋金入りの人権派」



「秘密のかけら」

2006年01月20日 | 映画
いかにもものものしく秘密がかった展開だが、しかし今どき「ショッキングなラスト」だけで満足させるというのは難しいのではないかと思っていて、ネタを明かすシーンで、初め特に気にしないで見ていてちょっとしたギャグでやっているのかと思ったら、みるみる意味が重くなる。伏線の張り方が細かい。
ただの変態ネタというわけではなくて、いわば一座を組んで興行してまわっている芸人コンビとスタッフというのが、擬似家族になっているのではないかと思わせ、さらにそれがバラバラになってしまっている現在と対置されて一種の寂しさが出ているのがなかなかいい。「ブラック・ダリア」みたいなのかと思ったら、感触はかなり違う。
ケビン・ベーコン、コリン・ファースともに生の客を相手にする芸人に見える。
(☆☆☆★)



秘密のかけら - Amazon

「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

2006年01月19日 | 映画
オープニング・タイトル、人名の姓と名がなぜかjohnMADDENという具合に間をあけずくっついて表示されるので、なんだろうと思っていたが、エンドタイトルが出た時、同じJohn Maddenがちゃんと間をあけて表示された時、なるほどと思った。

くっついてしまっていたものが離れる話だということに思い至ったからだ。娘の父親離れの話でもあるし、もう一つ大きいと思うのが、天才と狂気は紙一重と言われるが、狂気に乗っ取られてしまっていた天才が切り離される話、だからだ。実際その紙一重がなくなってしまったら、この映画の晩年のアンソニー・ホプキンスや「ビューティフル・マインド」のジョン・ナッシュではないが、人格は荒廃して天才の輝きも何も失われてしまう。

グウィネス・パルトロウは、もともと日本人の眼には肌がガサガサなのが目立つのだが、ここではほとんどスッピンではないかと思わせるメイクで登場、父親譲り(?)の内面の荒廃を形にして見せる。汚な作りというのとは違う、一見そのまんまと思わせて見ているとかなりアッチの方に入っているのに気づく、という表現だ。アンソニー・ホプキンスは正気と狂気をカードを切るようなメリハリでないまぜて表現しているが、こちらはもう少しべったりくっついている感じで、「恋に落ちたシェイクスピア」の監督でもあるし、ふっとハムレットを周囲の宮廷の人間が見たらあんな感じかと思った。

パルトロウがノートにあった数学の画期的な証明(原題はただの'proof')が自分のものであるのを認めることで、父と共にあった狂気から手を切るラストで、精神病患者が自分の症状の直視したくない核心を認め、言葉にすることができたら、それはいわば精神の患部を切り離すようなもので、自然治癒に向かうものだとどこかで読んだ話を思い出した。
数学の証明なんて非情緒的で無味乾燥に思えるものがドラマになるのかといささか危惧していたのだが、数というのは、まぎれもなく一個の言語、というよりごまかしをもっとも徹底して認めない点で究極の言語であり、ドラマの論理そのものではないか、などと思った。

余談だが、ここでは数学者のことをしばしばgeekと呼んでいて、オタクと訳していたが、プログレッシブ英和中辞典第4版では「1 米‘食いちぎり師’生きたヘビなどの首を食いちぎる異常な見世物師. 2 変態, 異常者; ばか.」というヒドい意味。
私がこの言葉を覚えたのは、「フレッド・ブラッシー自伝」の原題のPencil Neck Geekからで、ブラッシーが噛み付き攻撃を考えたのは、ニワトリの首を食いちぎる見世物(日本なら、さしずめヘビの頭をくいちぎる見世物小屋のヘビ女)から、というのが興味深かったので。
(☆☆☆★★★)

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Amazon プルーフ・オブ・マイ・ライフ

「チキン・リトル」

2006年01月18日 | 映画
伏線の張り方と拾い方が独特。それもドラマ内部の伏線というより、観客がディズニー(ハリウッド)作品というので予め持っているイメージや、昔からよく知られた話にひっかけたものが多い。

チャーリー・ブラウンをヒヨコにしたようなチキン(弱虫)・リトルが最初に空の一部が降って来て頭に当たった大変だというところは、もちろん団栗が頭に当たって空が降ってきたと騒いだヒヨコという昔からあるたとえ話からだろうと思ってみていると、不思議なことにテレビ局のカメラやスクールバスにも団栗のマークがついている。なぜだろうと思っていると、これがラストで一応オチがつく。意味がよくわからないが。

普通だったら、野球でリトルがヒーローになるところをクライマックスにしそうで、この後どうなるのだろうと思っていると、なんと本当に空の一部が降ってくる。そこから「未知との遭遇」ばりの展開になり、さらに「E.T.」までが入ってくるので、なんだこれは思うと、さらになんと「オオカミ少年」の話の逆みたいになる。それで話は「E.T.」のまま、いきなり「宇宙戦争」風の戦闘に突入するのでぎょっとした。そういうこちらが見知ったシーンに引っ張られて、しばしば逃げ水みたいにすかされたりむっとしたりしながら展開を追うと、ラストではきちんとハリウッド・エンディングを、しかも映画館で上映中のシーンを借りて展開するといった凝り方がお楽しみ。
パロディとかオマージュとかいうのでなく、もう先行作品が観客には常識だと見越した上で、駆け引きを仕掛けているみたいで、それがあまりに自信満々なのには、裏づけがあるにせよ、ちと鼻白んだ。

シナリオ&ストーリー部門のスタッフの数、20人以上。
(☆☆☆★)



チキン・リトル - Amazon

垣間見「レジェンド・オブ・ゾロ」ジャパンプレミア

2006年01月17日 | 映画
丸の内ピカデリーで「チキン・リトル」を見終えて出てくると、次の回が「レジェンド・オブ・ゾロ」ジャパンプレミアにあてられていた。
ロビーにあった携帯の自動充電器を上映中仕掛けていたのだが、終わって出てくると「ゾロ」のでかい看板がいつのまにかロビーにも作られていて、裏に隠れて充電器が見当たらない。聞いたら、これですかと携帯を出してきた。セキュリティ用の暗証番号知らなくても、管理者には開けられるのね。



「白い巨塔」再放送

2006年01月16日 | Weblog
「白い巨塔」(唐沢版)の再放送第一回を見る。それほど前の作品でもないのに、見え方がいろいろ変わる。
最近のゴシップのせいで、矢田亜希子の見え方が全然変わっていて、なんだかおかしい。
あと、自分の家族にいろいろあったので、里美助教授のすこぶる慎重な診察ぶりが家族に相当な負担になっているのが、良心的なのには違いないのだけれど、ややひっかかって見えるようになっていたのに自分で驚いた。
原作を読んだので、人物の紹介の手順、小道具のライターの使い方の工夫などがわかるようになる。




「輪廻」

2006年01月13日 | 映画
モチーフからして、昔だったらアート・フィルムでしかやらなかったような過去と現在や映画内映画と本編の映画の内容が同居する凝ったショットなどが多用されている。その分かえって作り物がかって、ナマっぽい怖さはさほどでもなし。



輪廻 - Amazon

「天空の草原のナンサ」

2006年01月09日 | 映画
限りなくドキュメンタリーに近い劇映画。犬と赤ちゃんには誰もかなわない、という格言を地でいったよう。主人公一家は、どう見ても本物の家族にしか見えないと思ったら、本物の家族でした。

ビャンバスレン・ダバー監督の前作「らくだの涙」は未見だったので、まったく白紙の状態で見た。調べてみたら、女性監督なのでなるほどと思う。癒し系という言葉は安直な感じがして好きではないが、わざとらしさがまったくないゆったりとした感触。粘って対象からさまざまな表情を引き出しているのが見ていてわかる。

ラスト、また遊牧の旅に出た一家の前に、地区の住民に選挙の投票を呼びかける車が通りかかる。遊牧民に「地区」など関係ないのに。
昔、受験勉強で国家の三原則として、主権・領土・国民なんて覚えさせられたものだが、考えてみるとこの定義は近代以降主流になった国民国家だけの話。遊牧民みたいに土地に縛られていない(つまり政府が管理しにくい)民は、もともと今の国家体制にそぐわない。だから、クルド人やバスク人のように問題になる。
主人公一家の前途も、必ずしも今までどおりの暮らしができるかどうか、微妙。内モンゴルでは、だいぶ遊牧生活が廃れてきているという。

モンゴル語(縦書きなのね)と、ドイツ語が並んで出てくるオープニング・タイトルが不思議な感じだったが、監督はモンゴル人だがドイツに留学して映画を学んで、撮影以外はドイツで作業したからこうなったという。
(☆☆☆★★)



天空の草原のナンサ - Amazon

「ロード・オブ・ウォー 史上最強の武器商人と呼ばれた男」

2006年01月08日 | 映画
すこぶる知的な戦争映画。ただ、キューブリックみたいに徹底して冷徹に突き放しているわけではない。主人公同様虐殺の現場に足を踏み入れることはない分、ヒューマンな感覚を残している家族の姿が甘く見えてしまうのが怖い。映画で戦場の悲惨さを再現しきれるかどうか、またへたに残酷な場面を出すと客がそれを「楽しんで」しまいかねないという問題は残るが。

素材勝ち。映画の裏に張り付いている現実のグロテスクさに笑うとともにげんなりする。ラストの展開の皮肉が強烈。アメリカで製作資金が集められなかったわけだ。
「世界にある銃は五億五千挺」「戦争で死ぬ九割は銃によるもの。銃こそ大量破壊兵器だ」など、事実を知らせる台詞にインパクトがある。とどめが、「世界で武器を最も輸出しているのは、米英仏露中の五カ国。国連の常任理事国だ」というラストの字幕。

ヴィジュアルも魅力あり。撮影のアミール・モクリはイラン人。光の当て方に独特のセンスがある人。
ニコラス・ケイジがいつのまにか髪の毛ふさふさになって登場。エンド・タイトルを見たらMr.Cage's hair-dresserというのがちゃんといるのが可笑しい。
(☆☆☆★★★)



ロード・オブ・ウォー - Amazon

「男たちの大和」

2006年01月07日 | 映画
素朴な感想として、大和ってこんなにデカかったのかとびっくりした。なるほど、これだけ立派な船なら惚れ込む人間が出るのも無理はない。実物大のセットを作った効果は大きい。
現代の回想から遡る構成は、まるっきり「タイタニック」。

これまた素朴な疑問として、特攻で死ぬことがなんで後に残して生き延びる人間のためになる、とか平和の礎になる、ということになるのだろう。だったら、生き延びた方がいいに決まっているではないか。
うって一丸になって死にに行くというのも、周りの空気に流されているだけではないかという疑問は消せない。

一方で、死地に赴く美学というのも、感覚的にわからないではない。史観がどうとか、反戦好戦がどうとかいった理屈ぬきでほとんど全編それで通している観もある。それがラストでどんでん返し的に生き延びる意義を説く方にひっくりかえるのだが、それほどとってつけた感じはしない。
こういう理屈の上の生の肯定と、死を美化する感覚というのは、矛盾はしているのだが、妙な具合に共存もしているということだろう。
しかし、生き残った人間が後ろ指をさされるっていうのはイヤだな。本当にイヤだ。生き残った方で恥を感じなくてはいけないという感覚もイヤだ。

内田(中村獅童)も生き延びて養子(成長した姿が鈴木京香)を育てたはずなのだが、画面で見ていると戦死しているようにしか見えない。どうやって生きていたのか。

戦闘シーンは相当な迫力。もっとも、本当に機銃掃射を浴びたら人間の身体は原型をとどめないはずで、あれでもまだ甘いのだろう。

劇中でどーんとアップになる新聞に堂々と「朝日新聞」と書いてあるのが、なんだか可笑しい。テレビ朝日が製作委員会に入っているとはいえ、ね。
(☆☆☆)



男たちの大和 / YAMATO - Amazon

「あらしのよるに」

2006年01月06日 | 映画
ディズニー・アニメでおよそ不人気なのに「きつねと猟犬」っていうのがあって、モチーフはそれと似ている(ティム・バートンが作画スタッフで参加していた時期の作)。食う者、食われる者がたまたま仲良くなったための悲劇。
で、別に比較してどうこういうほどの作品ではないのだが、決定的に敵対せざるをえなくなったきつねと猟犬両者が歯をむきだして争う場面は悲劇の醍醐味があったと思う。

ここだと、対立しないわけがない二人が、曖昧に対立を回避してばかりいる。ヤギのメイが雪山で自分を食べてくださいっていうところで、おお「ジャングル大帝」のクライマックスの再現かと思ったらあっさりスカされた。
その後、韓国ドラマばりにいきなり記憶喪失が出てきたと思うと、これまたあっさり元に戻る。
と、いうわけで悪くない素材を生煮えなまま食べさせられたみたい。
(☆☆☆)



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