prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「SAYURI」

2006年01月03日 | 映画
出だしのナレーションで芸者の世界をforbiddenと形容しているので、forbidden city(紫禁城)の連想から、これは「ラストエンペラー」みたいに積極的な意味でのエキゾチズム狙いではないか、と思った。実際、「閉ざされた」世界であることは、四角く囲われた庭や左右に高くそびえる塀などで視覚的に絶えず強調されている。
サムライと違ってゲイシャを外人に取り上げられても日本人には誇らしく見えはしないだろう。美的ではあるけれども、日陰の存在だからだ。
作り手の方で「異界」へのアクセス感をメインとしているから、見ている方としてもどこが変ここが変というより、どれだけ全体としてその「異界」を造形できているか、というレベルが見るポイントになる。
もともと、日本人にとっても知られざる世界だったし、だから魅力もあったはずだ。

プロダクション・デザインや撮影など、美術的なレベルはすこぶる高い。考証的に正しく相撲の土俵の四方に立った柱を再現したり(ただし「満員御礼」という札が張っているのは興ざめ)、ガラス窓が今みたいに平らではなく波打ったようになっているのを再現しているあたり、ずいぶん手がかかっている。森田芳光の「それから」でも波うちガラスは出てきたが、ありものを外して持ってきたから分量がさほどでもなかった。セットの大掛かりなことといい、金がかかっているだけのことはある。
その一方で、駅に「都 みやこ」という看板が出ていたり、やたらと提灯に「はなまち」と描かれていたり、賽銭を入れて鰐口を鳴らすところでなぜかお寺の鐘がゴーンとなったり、といった細かいところで、小骨が刺さるようにまたかと思わせる。

しかし、一番ひっかかるのは、日本人と中国人がごっちゃになったキャスティングと、日本を舞台にした日本人の話でもっぱら英語が話されることだろう。
主演のチャン・ツイイーはチャンスに恵まれてきた割に力不足が目立っていたが、今回もそう。どう見ても伝説的ゲイシャには見えない。脇の女優たちがそれぞれ力量と貫禄を見せているのと比べれば優劣ははっきりしている。あと、芸者としての訓練をろくに受けていなかったヒロインが特訓をうけるとみるみる頭角を現すあたりの調子のよさは、いかにもハリウッド製品。画面も音もゴージャスでストーリーがすらすら転がって人物描写は薄手。
日本人が世界に進出することや、ハリウッド・メジャーでこれだけ東洋系の役者で固められた映画が作られること自体の意義は認めるとして、また日本人が外国人に「理解されないこと」に妙な優越感を持つことがあるのを自覚もするとして、やはりひっかかるものはひっかかる。英語が「国際語」でハリウッド式がグローバル・スタンダードだとこちらにあずかり知らないところで決められているのには、反感を覚える。(もっとも、それで英語の勉強しないかというとそうでもないが)。

英語で芝居をやられると、演技比べというより英語の発音コンテストみたいに見えてくるのが、うっとうしい。
それにしても、ヨーロッパなど非英語圏を舞台にしてイングリッシュ・ネイティブでない役者をキャスティングして英語で通している映画はたくさんあるが、現地の人間にはどう写っているのだろう。
吹き替えにすれば済む、という問題だろうか。
(☆☆☆)



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