還暦直前に心臓弁膜症(僧帽弁閉鎖不全症弁形成術体験記)

還暦を目前にして滋賀医大の浅井徹先生の執刀で僧帽弁形成術を受けました。
私の体験が同病の方の参考になれば幸いです。

Tous pour un, un pour tous

2011年07月16日 | 雑記帳(その他)
19世紀フランスの作家アレクサンドル・デュマ(デュマ・ペールまたは大デュマ)作の三銃士第九章の最後に出てくるダルタニャンの台詞です。
英訳すると、All for One,One for All
日本語では、みんなは1人のために、1人はみんなのために
しかし現在では、みんなと1人が入れ替わった形で表現されることが多くなっています。
協同組合や保険のスローガンとしても使用されることが多く…我が家の近くの保険代理店の看板にこう記されています。
「1人は万人のために、万人は1人のために」

この言葉、古代ゲルマン人の船乗りの助け合いの言葉として言い習わされてきた…という説があります。
そして最も早く文献に載ったのがデュマ・ペールの三銃士で1844年のことです。
新聞小説として発表され、大人気を博しました。

さて、三銃士の第九章の最後、どのような展開からこの台詞が出たのでしょう?
私が読んだ角川文庫(竹内猛訳)による、第九章のラストです。

(ダルタニャンの大家であるボナシュー氏をリシュリュー枢機卿の親衛隊士に引き渡した後に)

「いやはや、おれは頭がおかしくなった」と、ポルトスは言った。「君たちはダルタニャンがしたことを認めるのか」
「もちろんだ」と、アトスが言った、「認めるだけじゃなくて、大いに讃めてやるな」
「ところで、みんな」と、ダルタニャンはべつに自分のやり方をポルトスに説明してやろうともせずに、
四人は一つ、切っても切れぬ、これがわれわれのモットーだ、いいね」
ポルトスはぶつぶつ言いながらも、みんなにならって手をさしのべた。そこで四人の友は、ダルタニャンが言った言葉を、声をそろえてくりかえした。
<四人は一つ、切っても切れぬ>
「よし、ではみんな、それぞれ自分の家に引きあげることにしよう」と、ダルタニャンは、まるで今までもずっと指揮を取っていた人間のような言い方だった。「気をつけてくれたまえ、これからは枢機卿がわれわれの直接の相手なんだから」
-第九章終わり-


岩波文庫(生島遼一訳)では、その部分は
四人一体
となっていて訳によりずいぶん表現が異なります。しかしどちらも原文に忠実な訳ではありませんでした。

それにしても凄い意訳ですね。これじゃわからなくても仕方ないか・・・・

ちなみにアレクサンドル・デュマは通常デュマ・ペール(大デュマ)と呼ばれるのですが、それは
父親もアレクサンドル・デュマ
息子もアレクサンドル・デュマ
つまり親子三代同じ名前なのです。
父親は軍人で、息子は「椿姫」を著した作家で、デュマ・フィス(小デュマ)と称されています。

ヴェルディが作曲したオペラ椿姫の台本はこのデュマ・フィスの小説から書き起こされたものです。

デュマ・ペールの小説では他にはモンテ・クリスト伯が有名ですね。
こちらは文庫で7冊にもなる超長編です。

ちなみに1844年前後の日本の出来事です(by Wikipedia)。
幕末ですね。
1840年 アヘン戦争
1841年 天保の改革
1842年 天保の薪水給与令
1843年 イギリス軍艦サマラン号、八重山諸島に上陸し測量を行う
1844年 フランス軍艦アルクメーヌ号、琉球に来航。宣教師を残す
1844年 オランダ国王、開国を勧告する
1845年 サマラン号、長崎に来航
1845年 幕府、海防掛を設置
1845年 阿部正弘、老中首座となる
1845年 アメリカ捕鯨船(マーケイター・クーパー船長)、浦賀に来航。日本人漂流民を送還する
1846年 アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル、浦賀に来航、孝明天皇即位
1849年 アメリカ軍艦プレブル号(ジェームス・グリン艦長)、アメリカ人漂流民救出のために長崎に来航
1849年 イギリス軍艦マリナー号、浦賀・下田に来航し測量を行う
1851年 ジョン万次郎、アメリカ船で帰国
1852年 オランダ商館長 クルティウス、オランダ風説書にて翌年のアメリカ艦隊来航を通告
翌1853年黒船来航


ついでに調べてみると豆パパ家の初代当主は1844年には61歳でした。