豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

スバル1000

2006年08月29日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 わが家のマイカーがスバル1000になったのは、1967年か68年(昭和なら42年か43年)のことである。
 はじめて中古のスバル360を買ったのが1962、3年のことで、1965年には新車のスバル360に買い替えているから、ずいぶんせっせと買い替えていたことになる。スバル1000の発売は1966年5月ということであるから、スバル360に買い替えて1年程度しか経っていない時期だったのに、富士スバルの営業のNさんが新発売されたスバル1000をせっせと奨めたのではないだろうか。

 スバル1000は徳大寺氏の「ぼくの日本自動車史」や、「1960年代のクルマたち・国産車編」(モーターマガジン社、2006年)などを見ると、歴史的な名車だったようだが、それほど車に関心のなかったわが家では、そのようなことを知ったうえで選ばれたとは思えない。

 スバル360でも、家族4人で何とか軽井沢に出かけることは出来たのだが、スバル1000が納車されたときの印象は強いものだった。
 とにかく“広い”。そして“静か”なのである。そのエンジン音は、スバル360の音に慣れていた者にとっては信じられないくらい静かだった。ドアの開閉音(閉まり音)もようやく自動車らしくなった。スバル360のドア閉め音は、今の電子レンジのドアを強く閉めたときのような音で、正直、近所に響くのがちょっと恥ずかしかったものである。

 しかし、何といってもその室内の広さは、スバル360から乗りかえた者にとって驚異的であった。
 徳大寺氏の本にも、「ぼくは初めてこのクルマに乗って、何よりも足元が広いのに驚かされた。リアシートもゆったりと2人が乗れる。室内の広さについてはサニーもカローラも遠く及ばない」とその印象を書いている(231頁)。
 実はスバル1000はスバル360と比べて広かっただけでなく、当時のサニーやカローラと比べてもはるかに広かったようである。

 さらにFFのためにフロアがフラットだったことも印象的である。
 母親がしきりに妹(私の叔母)の乗っていたクラウンよりもセンター・トンネルの出っぱりがない分スバル1000のほうが広々としていて、乗り降りしやすいと自慢していたことを思い出す。これも、あながち負け惜しみではなかったのかもしれない。
 「60年代のクルマたち」でも、まず第一にこのクルマのパッケージングを褒めたうえで、さらにフロアがフラットなことによる室内の広さが特筆されている(99頁)。ちょうどフラットフロアの(先代の)シビックの室内が、ほぼ同じ大きさのランクスやティーダに比べて広く感じられたようなものであろう。

 はじめてスバル1000に乗ったときに感じた、室内の広さへの満足感は、その後の私の車のサイズに対する価値観を決定づけた。
 スバル1000のサイズは、3900×1480×1390だが、現在でも私は、家族4人が移動するための車にとってこのサイズ以上の広さが必要だとはまったく思えないのである。
 安全性のためにどれだけのサイズの増加が必要なのかは分からないが、最近のように、コンパクト・カーまでもが次々に5ナンバー・サイズを越えて大きくなっていくことが私にはまったく理解できない。

 徳大寺氏のクルマ評価のなかに、この大きさは日本の道路事情にふさわしいとか大きすぎる、欠点をあげれば図体が大きくなりすぎたことであるといった文章がしばしば出てくるが、いつも私はこれに同感しながら読んでいる。
 かつて徳大寺氏が高く評価したシャレード、ジェミニ、ミラージュなどの、あの程よい大きさ(小ささ)はなぜ失われてしまったのだろうか。
 車の買い替えを検討すると、燃費、性能、アフターケアなどの点で結局は日本車に落ち着いてしまうのだが、サイズの点で、なぜ日本車は、VWポロ、プジョー206、シトロエンC3、ルノー・ルーテシアのようなサイズを追求しないのか、不思議でならない。
 
 ひょっとすると、「隣りの車が小さく見えます」というあのキャッチ・コピーに踊らされた愚かな消費者のまま、日本の車ユーザーがちっとも進歩しないことが原因なのかもしれない。
 恐竜もアメリカ車も突然大きくなったのではない。少しずつ大きくなった挙句に滅んでいったのではなかったのか。

* 写真のスバル1000は、1967年か8年夏の旧軽井沢ロータリーの町営駐車場で。現在の竹風堂の裏手あたりだろうか。当時の駐車場は屋外だった。

  2006年 8月29日

スバル360

2006年08月29日 | クルマ&ミニカー
 
 わが家のモータリゼーションの歴史は、昭和37年か38年に購入したスバル360に始まる。
 ちなみに、その前史として、昭和30年代の始め頃から叔父の家のクラウンで浅間牧場だの志賀高原だのに連れて行ってもらったことも含めると、わが家では「いつかクラウン」ではなく、「始まりはクラウン」だった。
 
 この年、威勢のよかった母親がまずスバル360の中古車を購入してきた。それから近所の教習所の貸しコースで練習し、小金井の運転試験場で軽免許を取得したのである。当時の軽免許の実地試験には確か三菱ミニカが使われていたが、試験場近くの教習所でミニカを貸し出しており、ミニカには試験直前に1回乗っただけだった。
 
 それまでは軽井沢へ行くのは、信越線の急行で3時間以上かけて行くか、池袋発で千ヶ滝の西武百貨店前まで行く西武バスを使っていたが、この年以降は、軽井沢へ行くのもこのスバル360に乗ってであった。
 今から思うと、よくぞあんな小さな車に4人も乗って、延々と(当時は関越道などもちろんなかったから)、国道18号を板橋、大宮、高崎などの渋滞にまき込まれながら、これまた3、4時間かけて行ったものである。
 
 しかし、後になって私の愛読書である徳大寺先生の「ぼくの日本自動車史」(草思社、1993年)を読むと、スバル360は今日の言葉でいうところの「パッケージング」に優れた車であったらしい。ドアの内側をへこませるなどの工夫がなされていて室内スペースを目一杯とってあったという。しかも忘れていたが、ドアが前開きだったので(!)乗り降りも楽だったという。

 そして、泣かせることに、徳大寺氏は「その気になれば、少々つらいとはいえ、大人4人を乗せてぼくの得意の日光ぐらいは充分いけただろう」とまで書いている(156頁)。
 どうも徳大寺氏ご自身はスバル360に4人を乗せて日光には行っていないようだが、わが家では、まさに家族4人を乗せて、毎年得意の軽井沢に出かけていたのである。途中で立ち寄るドライブインも、熊谷の五家宝屋、高崎観音の向かい岸の高台にある喫茶店か安中のピーコック・ヤナセ、そして横川のおぎの屋と決まっていた。
 それから碓氷峠の200いくつだったかのカーブに差しかかり、そしてついに、軽井沢駅の東側の“日本の近代遺産”風の雰囲気の国鉄の車両修理工場(?)が見えてくるのであった。

 いつだったか、NHKの「プロジェクトX」でスバル360誕生物語をやっていた。スタジオに実車が持ち込まれていたが、室内は「少々つらい」程度で、ぎゅうぎゅう詰めというわけではなかったし、箱根の山をちゃんと登る当時のビデオも放映されていた。
 ぼくは、車はたんなる移動の道具であると思っており、車を趣味の対象とは考えていない。それでも、ぼくが徳大寺氏のクルマ評論が好きなのは、同時代を生きてきた1人として、「確かにそうだった」と実感できる文章にしばしば出会うからである。上のスバル360評などがまさにその1つである。

 とはいっても、スバル360にはやはり限界があって、叔父の一家のクラウンと一緒に軽井沢から志賀高原を目ざした際には、途中の三原か長野原の坂道をローに落としても登ることができず、最初は子どもたちを降ろしてしばらく登ってみたが、先行き不安ということで結局断念したりしたこともある。
 ドアの開閉音なども安っぽかった。衝突安全性などは、もらい事故がなかったからよかったようなものである。

 スバル360は、1958年(昭和33年)の発売というから、わが家では4、5年落ちの初代の中古車を買ったものと思う。クリーム色と濃茶のツートンカラーだった。ついで数年後に、同じく360の新車に乗り換えた。今度は水色と濃紺のツートンカラーだった。
 いずれも、水道道路の豊多摩高校の近くにあった富士スバルという販売店で購入した。初代360以来、ここの営業のNさんのセールス・トークにのって、わが家では、スバル360、スバル1000、スバル1100、スバルFF-1、レオーネと乗り継ぐことになる。そういえば、途中で家内がレックスコンビに乗っていたこともあった。

 * 写真はわが家のはじめてのマイカー、“スバル360”。

  2006年 8月29日