旧道では活字に出会うことができなかったのだが、帰り道に国道沿いの平安堂軽井沢店に寄って、軽井沢関係の本を数冊買って帰ったた。
このコラムを書くために。そして、またしてもこれまでのコラムのいくつかの誤りと、新しい知識を得ることができた。
例えば、グリーンホテルを「ライト設計の」と書いたのだが、正しくは「ライト風の三層建築」ということのようだ。しかも、ぼくの記憶にある昭和40年前後のグリーンホテルは建て替えられた2代目の建物だそうだ。
そのグリーンホテルの裏には戦後までスケート場があったということである。そうと知っていれば一度滑っておきたかったな、と残念な思いがする。
ところで、わが家の軽井沢にまつわる最も古いエピソードは、祖父の軽井沢でのお見合いの話である。
大正10年に大学を卒業した祖父は、上田での講演の帰りに、恩師の吉野作造から軽井沢に立ち寄るように言われ、軽井沢駅で吉野先生と会ったという。
何の用かと思ったら、先生は祖父に結婚相手を紹介した。しかし、その頃祖父はすでに祖母と交際していたので、結局この話は実現しなかった。もし、その女性との話がまとまっていたら、孫の私は今頃旧軽井沢の別荘のオーナーになれていたかも知れない。
ただし現在のぼくとはまったく別の人格だろう。
そのときの思い出話として、祖父は、「当時は軽井沢駅前は一面の草原で、今の旧道までが一望できた」と言っていた。
いくら大昔といっても、少し大げさでないかと思っていたのだが、今回買った本のなかに、かつては軽井沢駅から離山下にある大隈重信の別荘が見えるほど木立の背丈は低かったという記述を見つた。
大隈の別荘がどれほど大きいものだったのか分からないが、離山のふもとが見えるくらいなら、軽井沢駅から旧中仙道の街並みが見えてもおかしくはないだろう。
上の2つの事実は、小林收さんの「避暑地軽井沢」(櫟、平成11年)という本で知った。
なお、定点観測しているツルヤの駐車場からの浅間山の写真を添付したかったのだが、あいにく滞在した3日とも、雲や靄がかかっていて浅間山の姿を見ることはできなかった。
* 写真は、大正10年の軽井沢駅前の風景。桐山秀樹ほか「軽井沢ものがたり」(新潮社、1998年)57頁から。
2006年 8月 3日