豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

軽井沢・幻の湖 2・スケートセンター、ボート池

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖”物語(その2) 

 軽井沢スケートセンターのボート池(1963年)。

 写真でボートが浮かんでいるのは、現在の屋外ホッケーリンク(夏は何になっているのだろうか?)の辺り。

 写真の右手が獅子林やスケートセンターホテルになった建物、写真左奥の方向に、世界スピード選手権の国旗掲揚台や優勝者の彫像があった。
 奥の方に浅間山が見えていた。

★2006・8・3

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大正10年の軽井沢駅前

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 旧道では活字に出会うことができなかったのだが、帰り道に国道沿いの平安堂軽井沢店に寄って、軽井沢関係の本を数冊買って帰ったた。
 このコラムを書くために。そして、またしてもこれまでのコラムのいくつかの誤りと、新しい知識を得ることができた。

 例えば、グリーンホテルを「ライト設計の」と書いたのだが、正しくは「ライト風の三層建築」ということのようだ。しかも、ぼくの記憶にある昭和40年前後のグリーンホテルは建て替えられた2代目の建物だそうだ。
 そのグリーンホテルの裏には戦後までスケート場があったということである。そうと知っていれば一度滑っておきたかったな、と残念な思いがする。

 ところで、わが家の軽井沢にまつわる最も古いエピソードは、祖父の軽井沢でのお見合いの話である。
 大正10年に大学を卒業した祖父は、上田での講演の帰りに、恩師の吉野作造から軽井沢に立ち寄るように言われ、軽井沢駅で吉野先生と会ったという。
 何の用かと思ったら、先生は祖父に結婚相手を紹介した。しかし、その頃祖父はすでに祖母と交際していたので、結局この話は実現しなかった。もし、その女性との話がまとまっていたら、孫の私は今頃旧軽井沢の別荘のオーナーになれていたかも知れない。
 ただし現在のぼくとはまったく別の人格だろう。

 そのときの思い出話として、祖父は、「当時は軽井沢駅前は一面の草原で、今の旧道までが一望できた」と言っていた。
 いくら大昔といっても、少し大げさでないかと思っていたのだが、今回買った本のなかに、かつては軽井沢駅から離山下にある大隈重信の別荘が見えるほど木立の背丈は低かったという記述を見つた。
 大隈の別荘がどれほど大きいものだったのか分からないが、離山のふもとが見えるくらいなら、軽井沢駅から旧中仙道の街並みが見えてもおかしくはないだろう。

 上の2つの事実は、小林收さんの「避暑地軽井沢」(櫟、平成11年)という本で知った。

 なお、定点観測しているツルヤの駐車場からの浅間山の写真を添付したかったのだが、あいにく滞在した3日とも、雲や靄がかかっていて浅間山の姿を見ることはできなかった。 

 * 写真は、大正10年の軽井沢駅前の風景。桐山秀樹ほか「軽井沢ものがたり」(新潮社、1998年)57頁から。 
  
 2006年 8月 3日

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追分学生村から千ヶ滝文化村へ

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ぼくが昭和30年代に居候していた叔父の別荘は千ヶ滝(獅子岩)にあった。

 叔父は学生時代の夏休みには毎年、旧制高校以来の親友と一緒に追分(正確には借宿)の宿を借りて勉強していたという。
 戦争が激しくなる数年前のことである。
 そのときに、将来自分で働くようになったら軽井沢に別荘をもとうと決意したそうだ。
 小林收さんの「避暑地・軽井沢」によると、大正末ころから追分には勉強するための学生が避暑に訪れるようになり、“追分学生村”などと呼ばれていたらしい。追分学生村で勉強した学生は高文試験に合格するなどという風説もあったという。

 その後、大学教師になった叔父が、この夢を実現させたのは昭和31年のことだった。
 学生時代に知り合って以来交流のあった追分のMさんの斡旋で、千ヶ滝のいわゆる“文化村”で売りに出ていた別荘を購入したのである。
 それから数年後の昭和35年に、私の親が千ヶ滝の西区に土地を購入したときの国土の販売価格が坪5000円だったから、当時は大学教師の給料でも千ヶ滝なら何とかなったようだ。
 ちなみに、当時の千ヶ滝西区は1区画300坪を単位として売り出していた。だから、今でも西区は碁盤の目のような区画になっている。沢沿いの大区画の別荘を除いては。

 小林さんの本によると、この千ヶ滝中区の別荘地は堤康次郎が大正8年に販売を始めたもので、当初は100坪の土地に11坪の家がついて800円、大正11年になると100坪の土地に12坪の洋館がついて2000円だったという。
 ほかの本を見ると、当時銀座三愛の土地が坪1000円となっているから、銀座の土地1、2坪分の値段で千ヶ滝に別荘がもてたようだ。
 最初の頃は売れ行きが芳しくなかったため、100坪の土地を抽選で無償提供したりしたらしい。そのなかに、叔父の近くにおられた中村孝也教授の名前も見られる。
 この辺りは旧軽井沢とは違って庶民的な価格だったため、教師や文化人が多かったので、“文化村”と呼ばれるようになった。
 前にも書いたが、昭和32、3年頃、ここの請求書には「文化村××様」と書いてあった記憶がある。

 「軽井沢の法則」なる本を読んでみると、この本の著者も含めて、古くから旧軽井沢に別荘をもっていた人たちの、追分や中軽井沢を“軽井沢”と呼ぶことに対する敵愾心が行間からにじみ出ている。
 でも、小林さんの本を読むと、軽井沢を発見した宣教師たちの生活信条、星野温泉の経営者に送った経営訓に見られる内村鑑三の教え、さらには、戦後浅間山一帯をアメリカ軍の演習地化することに反対した人たち(矢内原忠雄東大総長も登場する。もしそんなことになっていたら今頃軽井沢は自衛隊の駐屯地だろう)の軽井沢への思いは、旧軽よりも、追分学生村や、千ヶ滝文化村、あるいは北軽の法政村などにこそ息づいているように私には思われる。
 それだけが軽井沢だなどというつもりはないが。

 * 写真は1966年冬の千ヶ滝文化村風景。まさに100坪に10数坪(多少建増しされて広くなっていたかも)の質素な、しかし雰囲気のある別荘でした。 
                               
  2006年 8月 3日

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