昭和25年(1950年)に東京世田谷の豪徳寺(当時は世田谷区世田谷2丁目)で生まれたぼくは、小さい頃によく梅が丘駅の北口にある通称根津山に登って遊んだ。
家からは少し離れていて、小学校の低学年で行くには遠いのだが、家の近所に東京教育大学の学生だったお兄さんが住んでいて、その人が根津山の山頂近くの家を借りて塾だかそろばん教室を開いていたので、そのお兄さんがときどき連れて行ってくれた。
いまは羽根木公園というらしいが、当時は「根津山」で通っていた。かつては、あの根津嘉一郎家の所有だったのだろう。
北杜夫の小説だか随筆によると、空襲で青山脳病院が焼けたため、戦時中、根津山に疎開していたことがあるという記載があった。根津家の本家も青山にあったはずだから(根津美術館)、ひょっとすると斉藤茂吉と根津家の間に何らかの交流があったのかもしれない。
ちなみに、わが家の息子たちが通った武蔵中学、高校は根津嘉一郎が創設した学校で、かつて軽井沢にあった夏期施設は青山寮(せいざんりょう)と称していた。戦後まもなく軽井沢が俗化して、もはや生徒たちの夏期教育の場としてふさわしくないということで、赤城山中に移転してしまった。
この軽井沢の青山寮は、武蔵のOBたちが作ったHPを見ると、現在の軽井沢プリンスホテル・スキー場の駐車場のあたりにあったらしい。
現在の軽井沢プリンスホテルの一帯は、プリンスホテルになる前は、晴山(せいざん)ホテルというホテルがあったが、このホテルはかつては根津嘉一郎の別荘だったという(小林收『避暑地・軽井沢』櫟、平成11年刊、235頁)。「晴山」というのも、根津家の本拠地“青山”にちなんだ名前なのだろうか。
さて、何でこんな話になったかというと、根津山である。
実は、ぼくのこのブログの第1回は、広瀬正“タイムマシンのつくり方”というタイトルだった。広瀬氏の本によると、まさにこの根津山近く(梅が丘駅近く)のどこかに、なんと昭和18年頃にタイムマシンがあったというのだ。そして、昭和38年に一度、このマシンが現代に戻ってきたらしいのである。
昭和30年代の豪徳寺を出発点とするぼくのブログも、幼年時代のぼくが、根津山で遊んでいるうちに、この梅が丘にあったというタイムマシンに間違って乗ってしまって、時代をさまよっていることになっているのだが、きょう大間違いを見つけてしまったのである。
こんなことを書いたので、以前から『タイムマシンのつくり方』を何度か読み返してみたのだが、どうしても「根津山」とか「梅が丘」という活字を見つけ出せないのである。ひょっとして、ぼくがタイムマシンに乗り込んでしまったことに気づいたので、秘密を守るために活字を消去したのかとも思ってみたりもしたが、そんなことはなかった。
きょう、大学院で指導した中国からの留学生が無事学位を取得して帰国することになったので、彼が来日以来ずっとアルバイトをしていたお台場のレストランで送別会を開いたのだが(結果的にはぼくに対する謝恩会になってしまった)、その帰り道、自宅近くの道路沿いのマンションの1階に新しく古本屋が開店していたのに気づき、ふらっと店頭の100円均一の古本棚に近づくと、いつものように今日も、広瀬正『マイナス・ゼロ』が目に飛び込んできたのである。
パラパラとページをめくると、たちまち「梅ガ丘」の文字が飛び込んできたのである(7頁、15頁)。今回もぼくの記憶違いで、梅が丘のタイムマシンは『タイムマシンのつくり方』ではなく、『マイナス・ゼロ』に登場するのだった。集英社文庫版は持っているはずだが、どこかにしまい込んで見つからないままなので、さっそく買って帰ることにした。そして、このブログで修正しようと思っていたのだが、根津山から根津嘉一郎、そして晴山ホテルへと、話が飛び跳ねてしまったのである。
しかし、とにもかくにも根津山の近くにタイムマシンがあったことを確認できたのは、今日の収穫であった。
写真は、広瀬正『マイナス・ゼロ』』(河出書房新社、昭和46年12月10日2刷、580円)のカバー。
2007/3/2