3月6日の朝日新聞夕刊に“玉電100歳”という記事が載っていた。あの玉電がこの3月6日で創業100年を迎えたそうだ。
前にも書いたように、ぼくは昭和25年に世田谷の豪徳寺で生まれた。小田急線なら豪徳寺だが、本当に生まれた家は豪徳寺駅よりも玉電の“玉電山下”駅に若干近い。山下から松原に向かって最初の踏み切りのすぐ近くの進行方向右側である。線路から畑をはさんで2軒目だったので、電車が通るたびにガタゴトという振動が伝わってきた。
玉電の線路わきに生える野蒜を摘んできて、上級生が玉子でとじて韓国料理の“チヂミ”のようなものを食べさせてくれたこともある。畑から線路に忍び込んで、1円玉(時には奮発して5円玉)を電車に轢かせてペンダントのようなものを作って遊んだこともあった(鉄道往来危険罪?)。
朝日新聞にも掲載されている「いもむし電車」と呼ばれていたらしい(ぼくはそんな風に呼んだ覚えはまったくないのだが・・)黄緑とクリーム色のツートン・カラー(かつての日産の“フィガロ”を想像してくれればよい)、流線型の2両編成の電車がデビューしたころである。高台の小田急線の線路には、“オルゴール電車”という、「オルゴール」とは名ばかりで、雑音をまき散らすだけの箱根行きの特急も走っていた。
かつて編集者時代に、駒澤大学を取材したことがあった。東急田園都市線の新駅設置をめぐって、駒澤大学と東急だったか、許認可権をもっていた運輸省か東京都だったかの間で裁判があったころのことだ。必要があって調べたところでは、玉電は、もともと多摩川の川岸で採取した砂利を皇居前広場(当時は宮城前広場だろうが)に敷きつめるための運搬用に敷設されたものだと何かに書いてあった。いまの二子多摩川から渋谷を経由して、後の都電の並木橋方向に右折して、天現橋や古川橋などを経由して、和田濠まで延びていたという。渋谷で山手線をどうやって渡ったのか?山手線[省線?]など、まだなかったのかもしれない。
朝日の記事にはこれとは違った由来が記されている。どちらが正しいのか、ぼくには分からない。
それはともかくとして、ぼくの小学生時代の玉電の思い出としては、“赤電”というのがあった。あまり上品とはいいかねる、くすんだ赤い色(エンジ色に近い)に塗られた電車で、上町か松蔭神社あたりで人身事故を起こした直後を目撃したことがある。線路わきにムシロをかけらた被害者の遺体があって、そのムシロに血がにじんでいた。恐かったので思わず目をそむけた。“スタンド・バイ・ミー”の世界である。オルゴール電車はしばらく続いた後になくなったが、赤電はほどなく廃止になった。
恐い話ばかりではなく、三軒茶屋の駅で、かわいい女の子を見そめた思い出もある。正月に三軒茶屋の親戚を訪ねた帰り道のことである。三軒茶屋駅の山下に向かって右側に、駅に面して比較的大きな本屋さんがあった。お年玉で何か本を買おうと立ち寄ったのだと思うが、立ち読みしていると、少し年長の女の子が近寄ってきて、ぼくのそばで本を読み始めた。何かの拍子に彼女の吐息がぼくにかかった。白いハーフコートを着た賢そうな女の子だった。それだけのことなのだが、50年近くたった今でも、その子の甘酸っぱい吐息の記憶が残っている。
ぼくにとって、春の香りは、近所を散歩しているときに道ぞいの家の庭先から漂ってくる沈丁花の香りではなく、50年前の三軒茶屋駅の本屋の彼女の吐息なのである。
(写真は、朝日新聞2007年3月6日付“街 メガロポリス”欄の記事より)
前にも書いたように、ぼくは昭和25年に世田谷の豪徳寺で生まれた。小田急線なら豪徳寺だが、本当に生まれた家は豪徳寺駅よりも玉電の“玉電山下”駅に若干近い。山下から松原に向かって最初の踏み切りのすぐ近くの進行方向右側である。線路から畑をはさんで2軒目だったので、電車が通るたびにガタゴトという振動が伝わってきた。
玉電の線路わきに生える野蒜を摘んできて、上級生が玉子でとじて韓国料理の“チヂミ”のようなものを食べさせてくれたこともある。畑から線路に忍び込んで、1円玉(時には奮発して5円玉)を電車に轢かせてペンダントのようなものを作って遊んだこともあった(鉄道往来危険罪?)。
朝日新聞にも掲載されている「いもむし電車」と呼ばれていたらしい(ぼくはそんな風に呼んだ覚えはまったくないのだが・・)黄緑とクリーム色のツートン・カラー(かつての日産の“フィガロ”を想像してくれればよい)、流線型の2両編成の電車がデビューしたころである。高台の小田急線の線路には、“オルゴール電車”という、「オルゴール」とは名ばかりで、雑音をまき散らすだけの箱根行きの特急も走っていた。
かつて編集者時代に、駒澤大学を取材したことがあった。東急田園都市線の新駅設置をめぐって、駒澤大学と東急だったか、許認可権をもっていた運輸省か東京都だったかの間で裁判があったころのことだ。必要があって調べたところでは、玉電は、もともと多摩川の川岸で採取した砂利を皇居前広場(当時は宮城前広場だろうが)に敷きつめるための運搬用に敷設されたものだと何かに書いてあった。いまの二子多摩川から渋谷を経由して、後の都電の並木橋方向に右折して、天現橋や古川橋などを経由して、和田濠まで延びていたという。渋谷で山手線をどうやって渡ったのか?山手線[省線?]など、まだなかったのかもしれない。
朝日の記事にはこれとは違った由来が記されている。どちらが正しいのか、ぼくには分からない。
それはともかくとして、ぼくの小学生時代の玉電の思い出としては、“赤電”というのがあった。あまり上品とはいいかねる、くすんだ赤い色(エンジ色に近い)に塗られた電車で、上町か松蔭神社あたりで人身事故を起こした直後を目撃したことがある。線路わきにムシロをかけらた被害者の遺体があって、そのムシロに血がにじんでいた。恐かったので思わず目をそむけた。“スタンド・バイ・ミー”の世界である。オルゴール電車はしばらく続いた後になくなったが、赤電はほどなく廃止になった。
恐い話ばかりではなく、三軒茶屋の駅で、かわいい女の子を見そめた思い出もある。正月に三軒茶屋の親戚を訪ねた帰り道のことである。三軒茶屋駅の山下に向かって右側に、駅に面して比較的大きな本屋さんがあった。お年玉で何か本を買おうと立ち寄ったのだと思うが、立ち読みしていると、少し年長の女の子が近寄ってきて、ぼくのそばで本を読み始めた。何かの拍子に彼女の吐息がぼくにかかった。白いハーフコートを着た賢そうな女の子だった。それだけのことなのだが、50年近くたった今でも、その子の甘酸っぱい吐息の記憶が残っている。
ぼくにとって、春の香りは、近所を散歩しているときに道ぞいの家の庭先から漂ってくる沈丁花の香りではなく、50年前の三軒茶屋駅の本屋の彼女の吐息なのである。
(写真は、朝日新聞2007年3月6日付“街 メガロポリス”欄の記事より)