豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

原武史『平成の終焉ーー退位と天皇・皇后』

2022年06月11日 | 本と雑誌
 
 原武史『平成の終焉ーー退位と天皇・皇后』(岩波新書、2019年)を読んだ。

 古代史から天皇の「万世一系」を辿っても、なかなか現代まで到達できない。そこで、現在から遡ることにして、まずは図書館の書棚で目にとまった本書を借りてきた。

 巻末の「あとがき」によると、本書は、宮内庁が「皇室関連報道について」と題して、著者を名指しして、「基本的な事実を確認せずに」皇室について議論することは遺憾である旨の批判をしたことに対する「再反論」の書であるという(221頁)。
 それで合点がいった。この本は、皇太子、天皇時代の上皇夫妻の行動と発言を、具体的な事実を列挙した後に、著者自身の意見・感想を記したり、研究者らの論評を紹介するというスタイルで書かれている。どちらかと言えば、事実をジャーナリスティック(=日々の記録的)に記録した内容である。
 上皇夫妻の、皇太子・皇太子妃、天皇・皇后時代の発言と行動を、時代ごと、事例ごとにふり返るうえでは役に立った。とくに巻末の資料(行啓、行幸啓、国民との懇談会などの日時や頻度、訪問先が掲載されている)は事跡を通覧するのに便利である。
 しかし、事実を列挙する合間に挿入された著者の意見には違和感を覚えることが少なくなかった。

 違和感は、「明仁」「美智子」という表記から始まる。この呼称が出てくるたびに引っかかった。
 著者は、本書は「学術書なので」敬語や敬称を用いないと宣言するのだが(10頁)、岩波新書は「学術書」だろうか。岩波新書巻末の「岩波新書新赤版1000点に際して」によれば、岩波新書が追求するのは「教養への道案内」である。
 ぼくは、「学術書」か否かの基準は、引用文献の出典明記の有無によると考える。本書は、引用の場合に出典は明記されているが、出典の多くは新聞記事である。新聞記事は、記者が出来事や発言のどこを切り取るかで印象は異なってくる(赤瀬川原平『鏡の町 皮膚の町』筑摩書房、1976年)。
 本書に引用された天皇の行幸啓に関する報道も、取材、執筆した記者の主観によって取捨選択が行われているだろう。新聞記事の出典としての信ぴょう性を高めるためには、少なくとも2紙以上の比較による検証が必要だと思う。

 著者は、「明仁」「美智子」と表記する一方で、「皇太子」「皇太子妃」(105、108-10、141、122頁など)、「天皇」「皇后」とか、「皇太子夫妻」と表記することもあるが(112、122頁ほか)、区別する基準は何なのか。時おり「美智子妃」とも表記するが(142、160頁ほか)、「妃」の有無の基準は何なのか。
 「皇太子、皇太子妃」、「天皇、皇后」、「上皇、上皇后」と表記すれば、時代と文脈から現在の上皇夫妻であることは分かると思うのだが、それではいけなかったのか。天皇、皇后をどう呼称するか、敬語を使うか否かは国民各自の自由だと思うが、敬称略(呼捨て)と地位による表記の混淆に、ぼくは違和感を覚えた。
 ところで、「あとがき」の中に登場する「ある人物」(221頁)とは誰なのか、気になった。

 自衛隊との関係で、天皇、皇后の行幸啓などのたびに、自衛隊が堵列(とれつ=隊列を組むこと)を行なうことを著者は批判する(141頁~)。
 ぼくは、妻の実家が甚大な水害被害に見舞われた際の経験から、災害救助活動に携わる自衛隊員に対して感謝の気持ちを強く持つようになった。避難先の親戚からも迷惑がられ、唯一頼りになったのが、連日夏の暑さの中を水筒1つで廃家具や土砂・瓦礫の撤去作業を手伝ってくれた自衛隊員だったと妻は言う。
 そのような被災地を天皇、皇后が慰問することによって、「現実の政治に対する人々の不満が高まれば高まるほど、天皇や皇后がそこから超越した「聖なる存在」として認識される構造がはっきりと現われ・・・、昭和初期の超国家主義にも通じるこの構造は、・・・天皇と皇后が被災地を訪れるたびに強化されていった・・・」と著者はいう(148頁)。
 天皇、皇后にスマホを向けて写真を撮るような「市井の人々」が、天皇を「聖なる存在」と認識しているとも、「超国家主義」に通じるとも思えないが、もしそのような状況が出現しているとしたら、これも被災地に心を寄せない政治家らの怠慢、不徳の問題であって、だから天皇は被災地を慰問すべきでないということにはならないだろう。
 
 上皇が平成の時代に行なった多くの発言のなかでも、自らの出自に関して、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫と『続日本紀』に書かれていると述べた、あの発言がぼくは一番印象的だった。
 宮内庁のHPによれば、その言葉は、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。/しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。」というものであった(「天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)」、平成13年12月18日)。
 日本と韓国の関係を憂慮し、このような史実に言及した天皇の心情がうかがわれるが、『平成の終焉』の著者は重要性を認めなかったのか。
 なお、桓武天皇の生母高野新笠が百済から渡来した氏族であることは事実だが、百済王(武寧王)の末裔であったかは疑わしいようだ(田中史生『渡来人と帰化人』角川選書、2019年、258頁~)。同書は、桓武天皇は中国皇帝をモデルに日本王権の婚姻の「国際化」をすすめようとしたという荒木敏夫説を引用している(261頁)。

 数十年にわたって、沖縄から南洋諸島にまで足を延ばして戦争被害者を慰霊する旅を続ける一方で、昭和天皇を引き継いで靖国神社には参拝しない、折あるごとに日本国憲法を尊重する姿勢を明確な言葉で表明しつづけた上皇夫妻の発言と行動に、ぼくは、天皇の「象徴性」を「血統」ではなく「徳」に求めた自由民権の私擬憲法と同じ精神を見るのである。
 石流れ木沈む日々の中で、そのような天皇がわが国の「象徴」であったことに、ぼくは救いを感ずる。
 
 2022年6月9日 記