豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

吉村武彦『新版・古代天皇の誕生』

2022年06月03日 | 本と雑誌
(承前)
 天皇(現在の上皇)が、桓武天皇の生母(高野新笠)は百済の武寧王の子孫と伝えられている旨の発言をしたことがあった。
 2002年のサッカー・ワールドカップが日韓共同で開催された折の発言と記憶していたが、ネットで調べると、2010年に開催された平城京遷都1300年記念式典における発言だったようだ。
 ※ 宮内庁のHPで確認したら、やはりぼくの記憶の方が正しくて、この発言は2001年の誕生日に際して、ワールドカップ日韓共催に関してなされた発言であった(「天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)」、天皇陛下の記者会見、会見年月日:平成13年12月18日の項)。(2022年6月4日追記)
 ネットの情報には気をつけないと、と自戒。

 吉村武彦『新版・古代天皇の誕生』(角川ソフィア文庫、2019年、上の写真)は、著者がニューヨーク・タイムズ紙の取材を受けた経験から書き起こされている(6頁)。
 N・Yタイムズの記者は、当局が天皇陵の発掘を禁止しているのは、副葬品によって天皇が朝鮮系の帰化人であることが発覚するのを恐れているからではないかと質問したそうだ。
 著者は、天皇陵の発掘に関してはN・Yタイムズ記者と見解を異にするようだが、天皇(現上皇)が上記発言の際に根拠としたのと同じく、『続日本紀』の記述から、桓武天皇の生母が百済出身と認識されていたこと、「平安朝以降の天皇家には蕃国人の血が流れており、この事実は疑いようがない」と断言する(9頁)。
 さらに、『日本後紀』や『新撰姓氏録』の記述から、京、畿内の古代豪族のうち約28%が朝鮮、中国からの渡来人の出自であり、母系も加えるとその比率はさらに高まるだろうと述べる(~10頁)。

 倭人と渡来人(帰化人)との混血に関するこのような文献史学に基づいた知見は、最近の遺伝子研究に依拠した人類学上の知見(前に引用した中橋孝博『日本人の起源』講談社学術文庫など)によっても立証されるところである。
 史書には「蕃国」とあるが、当時の朝鮮はわが国よりはるかに文化が発達していた。当時の倭国はいまだ無文字、口承文化の社会であり(稗田阿礼!)、青銅器、鉄器から紙、文字(漢字)、仏教まで、多くは中国から朝鮮を経由して伝播したのであった。
 以前NHKテレビで聖徳太子を主人公としたドラマを放映していたが、聖徳太子役の本木雅弘が宮廷内でコリア語で会話しているシーンがあった。史実かどうかわからないが、そんなことがありえた時代だったのだろう。

 また今回も、本書からぼくが学んだ豆知識をいくつか記しておく。以前この手の情報を「トリビア」と書いたが、“trivia”(“trivium”)は「些細な、くだらない、(せいぜい)クイズ的な雑学情報」といった意味であり、適切ではなかった。「豆知識」もしっくりしないが、「豆豆」先生が得た知識ということで。
 
 (1) 『書紀』では、飯豊青皇女(顕宗天皇の姉)は政務を担った女性だが、「角刺宮において、与夫初交(まぐはひ)したまふ。人に語りて曰く、『一女の道を知りぬ。・・・終に男に交(あ)はむことを願せじ』とのたまふ。」とある(98頁)。同皇女は、弟(後の顕宗天皇)と兄(後の仁賢天皇)が互いに即位を譲り合ったために政務を担うことになったのだが、本来同皇女には(卑弥呼と同様に)男性と関係をもたないことが期待されていたから、『書紀』ではあえてこのようなことが記述されたのだろうと著者はいう(99頁)。
 
 (2) 『書紀』(允恭紀)によれば、允恭天皇の後継者として長子の木梨軽皇子が立太子したが、同皇子は実妹の軽大娘皇女と「結婚」しており、当時は同母兄妹の婚姻は「親親相姧(はらからどちたわけ)」といって禁忌の対象だったため、同皇子は群臣の推挙を得ることができず、(後の)安康天皇に戦いを挑んだが破れて自害し、安康天皇が即位したとある(106~7頁。112頁に再出)。前著(『ヤマト王権』)で「近親婚が多くなる」とあったが、その一例だろうか。
 
 (3) 王位継承の問題は、「王とどのような血縁関係にある人物が後継者に選ばれるか」という候補者の問題と、「どのような手続きを経て選出されるか」という手続の問題に分けられる(237頁)。
 候補者に関しては、兄弟継承が原則とされ、兄殺しの伝承に見られるように、「知力・体力などの実力が即位に際して重要な要素になった」。兄(王)の没後は弟に継承される6世紀前半になると、王位の世代間継承では王の嫡子である大兄(おおえ=長子)が継承するようになった(238頁)。しかし、一夫多妻制のもとでは大兄が複数存在することから、太子、皇太子制が模索されるが、定着しなかったようだ(106~114頁)。 
 『書紀』(允恭紀、雄略紀)には、兄弟間継承をめぐる王殺し、兄弟殺しの伝承が多く記されている(106頁)。例えば、上出の安康天皇は後に暗殺されるが、暗殺をめぐって允恭天皇の皇子の間で争いが生まれ、2番目の皇子と3番目の皇子が相ついで、4番目の皇子である(後の)雄略天皇によって暗殺されるという兄弟殺しの伝承を通して、兄から弟への王位継承が記されている(107頁)。

 (4) 王位継承の手続面では、群臣の協議を経た推挙によって王位継承者が決まったが、例えば木梨軽皇子は上記のような妹との近親姦があったために群臣の推挙を得られず、安康天皇が即位した(112頁)。
 大化改新(645年)において、初めて在世中の皇極天皇の譲位が行われ、群臣の推挙を経ないで王族の意思で新帝(孝徳天皇)が即位した(238頁)。蘇我家(総本家)が打倒されたのを背景に群臣の意向が排除されたのである。これを機に国王による自立的な王位継承が実現し、最終的には天智朝の「不改常典の法」によって直系の王位継承法が定まることになるが(162~4頁)、天皇は律令法を超越した存在であるため、律令には王位継承の法は定められていない(170頁)。
 ただし、「不改常典の法」の内容については、現在のところ学説上の定説はないという(238~9頁)。直系承継と兄弟承継との優劣も不明確で、壬申の乱では天智天皇の直系大友皇子と、兄弟大海人皇子が争い、大海人が勝利して天武天皇になっている(240頁)。

 (5) 『書紀』には、百済の武烈7年(507年)に斯我君(しがきし)が百済から派遣された記事があり、さらに斯我に子が生まれ、その子は「倭君の祖」とある(222頁)。この記述が事実であれば、百済の王族の一人が倭国に滞在し、その子孫が「倭(和)君」を名のったことになる。この「和氏」は桓武天皇の母である高野新笠が生まれた氏族である。ただし、著者は、高野新笠が主張した伝承が正確かどうかは「別の問題となる」と留保する(222頁)。前述の個所(9頁)では、『続日本紀』を根拠として、桓武天皇の生母の出自を武烈王の末裔と認識されていたと書いている。
 百済滅亡(660年)後に百済から多くの貴族、民衆が亡命してきたが、百済王族は天智、天武期のヤマト王権において優遇されたという(229頁~)。
 現在の日本社会よりもはるかに東アジア、中国や朝鮮に対して開かれた社会だったことがうかがわれる。

 2022年6月3日 記