豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

保阪正康『天皇--"君主"の父、"民主"の子』

2022年06月13日 | 本と雑誌
 
 保阪正康『天皇--"君主"の父、"民主"の子』(講談社文庫、2014年。旧題は『明仁天皇と裕仁天皇』講談社、2009年刊)を読んだ。
 この著者の本を読んだのは今回が初めてである。この著者は新聞への寄稿や対談などしか読んだことはなく、ぼくの座標軸ではどこに位置する人なのかよく分からなかったが、本書に示された上皇(明仁天皇)に対する評価はほぼ共感できるものだった。

 昭和天皇と明仁天皇を、「君主の父」と「民主の子」とする対比(本書のサブタイトルにもなっている)、ないし昭和天皇は「君主制下の軍事主導体制」(戦前)、「君主制下の民主主義体制」(戦後の昭和天皇)だったのに対して、明仁天皇になって初めて「現実の政治体制の下での天皇」(10頁)、「民主主義体制下の天皇」になったという対比を提示して、これ(後者)が本書を貫く一本の芯であると著者はいう(10頁)。
 この対比は(161頁ほかに頻出するが)、太平洋戦争の開戦と敗戦、ポツダム宣言受諾、アメリカによる占領と新憲法の誕生という昭和20年の革命的な変革を軽視していると思うが(「君主制」の継続)、明仁天皇(現上皇)を、立憲君主制から象徴天皇制へ、すなわち「非軍事、戦後民主主義体制下の天皇」を確立することを誓った、天皇制そのものの改革者と規定する見解(300頁)は大いに納得できた。
 
 明仁天皇は昭和8年12月に生まれた。皇太子誕生を祝賀する歌が作られた。作詞は北原白秋だった。ぼくの祖母は「皇太子さま お生まれなす(っ)た ♪」と歌って聞かせたが、原詩は「お生まれなつた」らしい(24~30頁)。
 ぼくの祖母は、1964年の秋、都内でタクシーに乗っていた折に、東京オリンピックの聖火リレーの渋滞に巻き込まれ、運転手が「聖火が通る」と言ったのを「陛下が通る」と聞き違えて、草履を脱いでタクシーの後部座席の上に正座したという逸話を残したおばあさんだった。「なす(っ)た」は敬語だったのだと思う。

 昭和天皇夫妻は皇太子を手もとで養育したい意向だったが、旧慣を主張する側近(牧野伸顕、木戸幸一ら)の反対にあって、3歳までは親もとで養育するが3歳になったら親元を離れ、東宮御所で養育係(東宮傅育官)によって養育されることになる。週に1回は両親との面会が認められるはずだったが、完全には履行されなかったという(39頁)。
 家族愛の深まりは天皇家にとって良いことではないという西園寺公望らの主張(200頁ほか)が通ったのだという。
 ヴァイニング夫人が、父子は同居し、皇太子が近くで天皇を見つめるほうが望ましいのではないかと意見したのに対して、昭和天皇が、自分は戦争を止めることができなかったから、自分の後継ぎを育てる資格はないと答えたという(78頁。ただし伝聞)。 
 昭和天皇は社会党内閣の首相片山哲に好意的な印象を持っていたが(92頁)、片山の東宮職廃止の提案に対して、自分も本当は手もとで養育したいが、そうすると女官らが皇太子に追従や迎合をして教育上好ましくないとして(東宮職の廃止に)反対したという(92~3頁)。

 昭和18年、皇太子が10歳になった際に、東條英機から天皇に対して、皇太子を武官に就任させる要請があったが、この戦争は私の戦争である、皇太子に迷惑をかけるようなことがあってはならないとして、天皇は要請を拒否したという(53頁)。
 戦後に天皇の退位問題が発生し、天皇自身も退位を考えたことがあったが、自分が退位して若い皇太子が即位した場合に誰が後見人になるかを心配し(131頁)、芦田均首相や側近らも、高松宮が摂政に就任することを懸念して退位に反対したという(135頁)。
 これらのエピソードからは、昭和天皇が、皇太子を戦前の軍部や高松宮から遠ざけたいと考えていたことがうかがわれる。 
 
 学習院高等科卒業時のインタビューで、皇太子は好きな学科として「生物、歴史、語学」と答えており(140頁)、愛読する新聞雑誌として「朝日、毎日、読売、時事、東京など、雑誌は中央公論、文藝春秋、リーダーズ・ダイジェストなど」のほか、ライフやロンドン・タイムズなども読んでいると答えている(140頁)。皇太子が東京新聞とは意外な!
 皇太子は学習院大学政経学部に入学したが、公式行事などのため授業に出られない事態が起きた。院長の安倍能成が、公的な理由であっても授業に出ないのならば学習院大学の卒業証書は出すべきではないとしたため、皇太子は同大学を中退したという(178頁)。見識ある院長だとは思うが、当時は院長が単位認定権を握っていたのだろうか。

 皇太子妃選びに際して、小泉信三(東宮職参与)は、従来のような形の結婚はいいことではない、近親婚によってマイナスの影響が生じるのではないかと助言し、公言もしたという(182頁)。皇太子自身も元皇族は絶対にもらわないと学友に語っていたそうだ(195頁)。
 妃候補者は小泉自身がリストアップして、美智子妃に白羽の矢が立ったこと、正田家が学問の家系でもあり、美智子妃が成績優秀だっただけでなく、聖心時代に自治会の会長も務めるなど人望も厚かったことから選ばれたという(183頁~)。聖心に自治会があったとは!
 軽井沢のテニスコートでの出会いも偶然ではなく、小泉や彼に同調する宮中の人たちによって演出されたものだったという(185頁)。婚約会見で美智子妃が語った「ご誠実で・・・」という一言は(189頁)、その声色まで小学生だったぼくの記憶に残っている。
 この結婚には、皇后(香淳皇后)や常磐会、女官などが激しく反発し、結婚後も嫌がらせを行なうなど皇太子妃を冷遇したことは噂では聞き及んでいたが、本書ではかなり具体的にその事実が記されている(190、212頁ほか)。
 ぼくは皇太子を一度だけ見たことがある。昭和30年代末か40年代初めだったと思う。場所は軽井沢の千ヶ滝にあった軽井沢スケートセンターのテニスコートである。テニスのトーナメントがあって、皇太子は確か石黒賢のお父さん(元デ杯選手だった)と組んでダブルスに出場していた。
 道路沿いの石段の観客席に座ってその試合を眺めたのであった。

 明仁天皇は、昭和天皇について、昭和天皇即位50年に際して、「陛下の中に一貫して流れているのは、憲法を守り、平和と国民の幸福を考える姿勢だったと思います。・・・」と述べ(238頁)、昭和天皇の崩御に際しても、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、・・・」と述べている(296頁)。本書で紹介された多くのエピソードを読むと、昭和天皇と皇太子が互いに深い愛情で結ばれていたことがうかがわれる。 
 日本国憲法の象徴天皇制こそ、伝統的な天皇のあり方に沿うものだという言葉もある(370頁)。「皇室の伝統は “武” ではなく、つねに学問でした。(歴史上も)軍服の天皇は少ないのです。学問を愛する皇室、という伝統は守り続けたい」とも語っている(252頁)。著者は、これを明仁天皇の「自らの核になっている思い」であるとする(同頁)。
 天皇は、終戦の日、沖縄戦終結の日、広島および長崎への原爆投下の日の4つの日をどうしても記憶しなければならない日として、黙とうを捧げていると語っている(273~4頁)。 
 
 上に引用した事実の多くは、本書を読んではじめて知ったことである。以前から知っていたことの確認も含めて、ぼくの天皇(現上皇)に対する理解は深まり、抱いてきた感情の淵源にも近づくことができたと思う。この本は明仁天皇とその時代をかえりみるスタンダード、基準点として手元に置いておきたいので、さっそく注文した。
 昭和天皇に関しては、改めてこの著者による「昭和」ものを読んで考えてみたいと思った。保阪は昭和史、昭和天皇について多くの本を書いているようだが、1冊だけだとどれがおすすめだろうか。 

 2022年6月12日 記

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