豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

高橋治 『絢爛たる影絵 小津安二郎』

2010年09月09日 | 本と雑誌
 
 勉強目的で出かけた軽井沢のはずだったが、実は“カルメン 故郷に帰る”のDVDだけでなく、高橋治“絢爛たる影絵 小津安二郎”(文春文庫)も持っていったのである。
 万が一(?)、仕事に行き詰ったときの気分転換に、と思って。

 先日、小津の作品をDVDで見ている頃に、ふと近所の古本屋に久しぶりに立ち寄ったら、文庫の棚にこの本があった。262円、表紙に印刷された定価のちょうど半額だった。
 相当日に焼けていて、古本臭もしていたのだが、買ってしまった。
 今月の17日だかに岩波現代文庫で出る、定価は1300円くらいという広告が出ているが、貴田庄の本ではあまり好意的に引用してなかったので、大した本ではないだろう、1300円の本が262円なら、という気持ちだった。 

 ところが、軽井沢2日目の夜12時近くになって、寝る前にちょっとページを開いてみたら、引き込まれてやめられなくなってしまった。
 共感したからではない。違和感からである。
 昨日見て、何がいいのか分からなかった木下恵介“カルメン 故郷に帰る”を小津は高く評価し、試写会の後の酒席で「いい映画を見た後は酒がうまい」と言ったという。監督会でも、小津はいつも木下を隣りに座らせた。
 単純なぼくとしては、“二十四の瞳”なら分かるけれど、なんで“カルメン~”を見た後で酒がうまいのか。軽井沢が舞台で、草軽電車が出てこなかったら見ない映画である。

 高橋は東大を出て松竹に助監督として入社して、たまたま代役で“東京物語”の末席の助監督を務めたらしい。
 この本は、実際に高橋が交流した小津の姿と、小津の周辺の人物への取材からできている。でも、小津を語りながら、実際には高橋自身を語っているようにも読める。直木賞候補になったらしいが、小説らしくはない。

 だけど、やめられなくなってしまった。
 映画批評というのはああいう風にやるものなのか。ぼくがこの“豆豆研究室”に書いているものなど、あまりに表面的すぎて、われながら笑ってしまうような代物である。
 “東京物語”の原節子は「もう一人寝はできなくなりかけている女」だし、“晩春”の原節子はエレクトラ・コンプレックスを抱えた娘である。笠智衆との京都旅行の際の部屋に飾られた「壺」さえ性的な隠喩らしい。
 
 ぼくは東京に帰ってから、思わず“晩春”を見直してしまった。
 確かに、父親、笠を見すえる原の眼差しは怖いものがあった。問題の「壺」も言われてみればそう見えなくもない。でも、どちらかといえば男の象徴に見えてしまった。
 そんなことより、京都の清水寺(?)のシーンに、あの“一人息子”、“戸田家の兄妹”の坪内美子が出ていたことを発見したことのほうが嬉しかった。所詮は縁なき衆生なのだ。

 小津の「不貞」へのこだわりの指摘、“戸田家の兄妹”を境に、小津がノースター主義から豪華絢爛スター主義に“転向”したという指摘などは同感である。
 前にも書いたが、“風の中の牝雞”で佐野周二が田中絹代を階段から突き落とすシーンの凄まじさは、少なくともぼくが見た9本の小津作品の中では他にない衝撃だった。ただし、「不貞」にこだわるのには、小津の実生活において何かの事件があったのかについては、高橋も示唆を与えてはくれない。
 ぼくとしては、「転向」前の小津の映画のほうが好きだし、“晩春”“麦秋”“東京物語”など(「夏三部作」というそうだ)も、この本に書いてあるような深読みではなく、映像とストーリーを表面的、画面通りに見ているだけで十分である。
 作っている人たちは一生懸命なのかもしれないけれど、ぼくにとっては映画は娯楽であり、小津の映画には、懐かしいぼくの昭和と東京を追体験する媒体になってくれる映像やセリフの二つ三つ(五つ六つか)があれば、それでいいのである。

 でも、この本のおかげで、小津の同じ作品を繰り返し見る楽しみを得ることができた。

* 高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』(文春文庫)。

 2010/9/9

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