豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

橋本福夫「通り過ぎていった男の顔」他

2021年11月01日 | 本と雑誌
 
 橋本福夫『橋本福夫著作集Ⅰーー創作・エッセイ・日記』(早川書房、1989年)から、彼の創作を数編読んだ。ほぼすべてが、彼の戦時中の体験、それも追分での体験に基づいた小説である。

 前回は、戦前・戦後の追分の事情を知りたくて、この著作集の「エッセイ・日記」の部分を通読して書き込みをしたのだが、創作は読まなかった。正直あまり彼の小説には興味がなかった。しかし、創作のなかにも小説の形をとった追分の出来事が出てくるのではないかと思い、小説も読んだ。
 戦争中の、しかも極寒の(糞便までが凍る)追分での生活にもかかわらず、解説者が評していたように橋本の「飄々とした」性格と生活ぶりがうかがえる小説だった。

 「或る死」は、K市(後に須磨の海岸が出てくるから神戸だろう)に住む主人公のもとを訪れた遠縁の若者の話。
 彼は突然神戸に住む主人公の家にやってきて、「満州にわたって軍の密偵になる」と言い残して去っていく。しかし実際にはそのようなことはなく、彼は碓氷峠で列車に飛び込み自殺してしまう。実は彼は左翼と疑われて刑事につきまとわれたため神経衰弱に陥って自殺したのだったと聞かされる。彼も戦争の犠牲者だったと作者はいう。
 この小説の中には、浅間山の噴火口に飛び込んで自殺しようと試みる者が道に迷って途中の山林で首つりをすることが多いという地元に伝わる怖い話が出てきた。
 ぼくは今から50年以上前の中学生の頃に叔父に連れられて石尊山に登ったことがあった。浅間山の向って左側の低い山だが、追分から歩き始めたのだが、裾野の山林が延々と続いてなかなか登山道に到達しない。ようやく登り道になったが、一緒に登った従弟が音を上げてしまい、途中の血の池だったか赤滝だったかで引き返すことになった。あのときの登山道の両脇の山林が自殺の名所だったのだろうか。
 そう言えば「一輪の花を」のなかにも須磨海岸が自殺の名所だという話があった。須磨はぼくの母の生地だが、そんなことは聞いたことがなかった。

 「時の合間に」はK市(これも神戸だろう)が舞台。
 ある鉄道の支線に乗っていた主人公が、走る電車の車窓から帽子を飛ばしてしまい、次の駅で下車して線路沿いを探しながら歩いていると、運よく見つかったという話。
 ぼくも中学1年生の遠足で稲毛海岸に潮干狩りに行った帰りに、買ってもらって2か月もたっていない学生帽を総武線の窓から落としてしまった。平井か亀戸あたりだった。担任から「また買ってもらえ」と言われただけで、降りて探しにはいかなかった。あの頃あの辺りで、ほぼ新品の学生帽を拾った人間がいたのではないか。

 「霜は木にも人間にもつく」は主人公が初めて寒冷地の高原(追分だろう)で冬を過ごす物語。
 この村にはよそ者が4家族いたが、1軒は若夫婦だが土蔵を改造した頑丈な家に住んでおり、ストーブも備えてある。もう1軒は大学教授だが隣県の中心都市(高崎か)にも家を持っており、いざとなればそちらに移動できる(誰だろう?)。3軒目はその作品によってこの村を有名にした作家で、結核の療養を続けている。これは堀辰雄しかない。4軒目が主人公の橋本夫婦である。
 昭和18年の追分には、余所者はこの4所帯だけだった。主人公のために宿屋(油屋だろう)の主人が鶏を10羽くれるのだが、寒さのために家の中に入りこむ鶏と格闘する主人公(安岡章太郎の「海辺の光景」だったかを思い出す)、寒さのために柴だけでは風呂が沸かないためマキ割りをするのだが、斧の刃が脛にあたって大けがをする話など(当時の追分には漢方医が1人いるだけだった)、定年後は軽井沢に移住しようなどという、かつてのぼくの甘い考えを吹き飛ばすエピソードがつづく。
 そもそも橋本は幼少期に養子に出されて以来孤独の中で生きており、冬の追分での孤独な生活などは苦にならなかったらしい。

 「通り過ぎていった男の顔」は、戦後の追分の裏面史が描かれている。
 神社の祭りの酒席で、K町の町長が、もともと追分は飯盛り女を置く遊郭同然の宿屋が並ぶ宿場町だったのだから、進駐軍対策のために売春宿の集合地にしようと提案した。追分には「もう一度町の便所になってほしい」と言ったらしい。その頃、すでにこの町にもアメリカ兵が来るようになっており、米兵による暴行事件なども起きていた。この町長の発言のことは、エッセイのなかにも出たきたので前の書き込みで紹介した。
 この祭りの帰り際に、主人公に近寄ってきた通りすがりの見知らぬ男が、「これから日本人はどういうめにあわされるかわからないんだぞ」、「おれたちも中国ではずいぶんひどいことをやってきているんだからなあ」と言いいのこして去って行った。この台詞は加藤周一「ある晴れた日に」(1951年)にも出てきた。この場に加藤も同席していたのか、あるいはこのエピソードを加藤から借用したのか・・・。

 ここまでは1979年から1981年にかけて書かれたもの。猫が登場する話は省いた。つづく「湧水のほとりにて」と「葉のそよぎ」の2本は、いずれも1947年に同人誌「高原」に発表されたもの。

 「湧水のほとりにて」は、3歳で養子に出された主人公(橋本自身)が養母と不仲になり、養母から離縁される話。
 成人してから養親との不仲が原因で養子縁組を解消される当事者の気持ちがどんなものかを覗うことができる。家督相続した養家の山林を失うことなどより、ずっと嫌いだった養母との縁が切れることを喜ぶ一方で、養家の中でただ一人橋本を大切にしてくれた亡き祖父の墓と縁が切れてしまうことを寂しく思う。
 そして、引越し準備の最中にいなくなってしまった飼い猫が引越し前夜にふらりと戻ってくるところで話が終わる。また猫か・・・。

 「葉のそよぎ」は「支那事変」(1937年の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中間の戦争だが、橋本は当時言い慣わされていた「支那事変」と書いている)が始まる前の神戸、というより須磨海岸が舞台である。
 当時の須磨海岸は、浜辺に犬猫の死骸が打ち上げられ蠅が群がっているような汚いところだったらしい。主人公が晩秋の夕暮れ時にその海岸を散歩した帰りに、海岸沿いのうらぶれた家並みの中に「支那語教授」と書かれた看板を見い出す。上海への転勤を希望していた会社員の主人公は、さっそく入門する。
 葛木という教師は大阪外語を出てから就職もしないで、この私塾で生計を立てているらしいが、生徒は数名しかいない。葛木は橋本本人と思われる人物が小説に登場するときの名字であり、葛木の経歴も橋本に近い。この当時は、中国語は商業学校の生徒が簿記と一緒に習うような科目だったらしいが、商業学校の生徒もやがて来なくなってしまい、生徒は主人公一人になってしまう。
 そんな時、葛木が知り合いの就職あっせんを主人公に依頼してくる。主人公は「あなたがうちの会社に来たらどうですか」と誘う。葛木は笑って、自分は樹木の葉や幹に雨や雪や嵐が滲み透らせた雨水を味わうことに生の意味を見い出して生きてきたのだ、と答える。
 この葛木のことばでこの話は終わる。それは橋本本人の信条告白だろう。
 戦時中の厳寒の追分に孤独に耐えて住みつづけ、戦後は農業と翻訳を生業としながら、無償で私塾(高原塾)の講師も務める一方で、追分の区長に祭り上げられて農地解放の最前線の実務を担い、生活協同組合を立ち上げて地域の生活改善運動に取り組み、追分の赤線化、軍事基地化に反対する運動にもかかわるという、橋本の強靭な行動力の源を知ることができる。

 橋本の創作のなかでは「葉のそよぎ」が一番「小説」らしかった。彼の小説の舞台のほとんどが、ぼくにも多少のなじみのある追分か神戸、須磨だったのもよかった。

 2021年10月31日 記

 ※ ふさわしい写真がなかったので、適当な軽井沢の写真を載せておいた。

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