図書館で借りてきた『橋本福夫著作集Ⅰ』を読んだ。
定年退職以後は蔵書はできるだけ捨てる努力をして、今後もう本は買わない、増やさないつもりでいるのだが、この本は手元にあってもよいな、と思った。
Amazon で調べると、最安値が「草思堂」というところで、「評価:良い、本体257円、配送料349円」で出ていた。
その住所を見ると、なんと石神井公園駅の近くではないか! それなら歩いて行くこともできる。散歩日和なので、さっそく今日(11月1日)の午後、散歩がてら出かけてみた。google map のストリート・ビューで調べておいたので、店はすぐに見つかった。
カウンターの若い男性に、「ネットに出ている本も店頭で買えますか?」と聞くと、買えるというので、プリントアウトした『橋本福夫著作集Ⅰ』のページを渡した。倉庫からとってきますと言って、数分待っていると持ってきてくれた。
評価:「良い」だったが、「非常に良い」に近いきれいな本だった(上の写真)。しかも本体価格だけで購入できた。
Amazon 最安値の古書店が徒歩圏内にあるなど、めったにない幸運である。でも、たまにはそんなこともある。Amazonで「呂運享評伝」を探した時も、家から最も近いポラン書房が最安値だった。この『橋本福夫著作集Ⅰ』も、ぼくに買われるためにこの古書店の倉庫で眠っていたのだろう。
安くて申し訳なかったので、本棚から見つけたG・K・チェスタトン『木曜の男』(創元推理文庫)も買って帰った。200円だった。残念ながら橋本福夫訳のハヤカワ文庫版は置いてなく、吉田健一訳だったが、多少の縁はあるだろう。
ぼくは『木曜日だった男』、『ブラウン神父』の著者名を「チェスタートン」と思っていたが、最近は「チェスタトン」と表記している。この小説は橋本訳が本邦初訳だが、橋本訳の『木曜日の男』(ハヤカワ文庫、1951年)は「チェスタートン」である。これが流布したのだろう。ただし、今回の本では橋本自身も「チェスタトン」と書いている。
ちなみに、『著作集』の中の橋本の回顧談によると、ジョイス「ダブリン市民」も橋本が本邦初訳らしい。比較文学会の会長にそう言われたとのことである(295頁)。サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(橋本訳ではサリンガ-『危険な年齢』ダヴィッド社、1952年)も本邦初訳である。しかも原著が刊行された翌年には翻訳を出版している。
チェスタトン、ジョイス、サリンジャーを見つける眼力と、たちまち訳出する腕力はなかなかのものである。
※ そう言えば、橋本はドイッチャーの『予言者トロツキー』3部作の共訳者の1人でもあった。新潮社に出版を提案したのは橋本だったという。
「ライ麦・・・」のホールデンは、橋本の小説の主人公葛木(橋本自身)を思わせる。葛木が都会的でない点で決定的に違っているが、葛木も裕福な地主階級の息子で、いわゆるモラトリアム人間であり(小此木啓吾『モラトリアム人間の心理構造』中央公論社、1979年、246頁~)、自殺願望をもっている(しかし実行はしない)点は共通しているように思う。
ドライザー『アメリカの悲劇』の全訳も橋本が最初らしいが(角川文庫)、これは彼の卒論のテーマでもあったから納得できる。ぼくは大久保康雄訳の新潮文庫で読んだが、もう今から橋本訳で読み直す気力はない。しかし、橋本訳のサリンガ-『危険な年齢』はぜひ読んでみたい。
堀が追分(「菜穂子」「楡の家」など)、軽井沢(「ルウベンスの偽画」「風立ちぬ」など)に、「クレーブの奥方」や「マノン・レスコー」などヨーロッパの文学空間を虚構として構築(ロマン化)したのに対して、橋本の追分はさびれた宿場町、田舎(日本的ムラ社会)そのままであった。それだけにかえって「追分」情報小説として橋本の随筆、小説は貴重である。
2021年11月2日 記