ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー』に触発されて、かつて読む気になれなかったサリンジャーの初期の短編小説を読んでみることにした。
最初は、「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが初めて登場したという「マディソン街のはずれのささやかな反乱」(“Slight Rebellion off Madison”,1946)。手元にあった『若者たち』(鈴木武樹訳、角川文庫、1971年)に収録されているのを読みだした(角川の邦題は「マディスンはずれの微かな反乱」)。
しかし、今回もダメだった。書き出しの1文から引っかかった。数行とはいわないが、第2フレーズでやめることにした。ぼくにとっては時間の無駄であると覚った。スラウェンスキーの要約で十分だ。
ついで、サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳、新潮文庫、1978年)にチャレンジすることにした。
「マディソン街・・・」がダメだったのはひょっとしたら訳文のせいかもしれない。ぼくは野崎孝訳で「ライ麦畑・・・」を読んだが、ぼくが気に入ったのはサリンジャーではなく、野崎孝訳だったかもしれない。彼は、翻訳当時ラジオの深夜放送を聞いてその頃の(日本の)若者の言葉を学んだと何かに書いていた記憶がある。野崎訳なら・・・、と期待した。
掲載された順番に、「バナナフィッシュにうってつけの日」(“A Perfect Day for Bananafish”,1948)、つづいて「コネティカットのひょこひょこおじさん」(“Uncle Wiggily in Connecticut” 1948)を読んだ。
やっぱりこれもダメだった。訳文は角川にくらべれば工夫されていて読みやすい。
しかし、いくらスラウェンスキーで執筆の背景事情を知っても、つまりサリンジャーの小説がいわゆる「戦後文学」だったとしても、彼の書き方をぼくは好きになれない。
でもこの2作はとにかく最後まで通読した。「バナナフィッシュ・・・」の「バナナフィッシュ」は井伏鱒二の「山椒魚」である(どちらが先なのか?)。ラストはちょっと衝撃的だが、時おりあのような衝動が戦後のサリンジャーを襲ったのだろうか。
「コネティカット・・・」もぼくにはムリだった。
自堕落な日々を過ごすヒロイン、エロイーズと友人メリー・ジェーンの会話について行くことができない。エロイーズの初恋の相手(ウォルト)が、戦争中に(戦闘によってではなく)、上官の日本製(!)ストーブの梱包作業中の爆発事故で不慮の死を遂げるという過去があったとしても、そしてそれがサリンジャーが実際に経験した戦友の事故死に題材をとったものだと知ったとしても、である。
サリンジャーは日本軍の真珠湾奇襲攻撃に怒って、愛国心から志願兵になったというが、このストーブが日本製だったところに、彼の日本に対する憎しみを感じた。
「コネティカット・・・」は、 “My Foolish Heart”(邦題は「愚かなり我が心」)として映画化されている。その映画の紹介を読むと(『アメリカ映画大全集』キネマ旬報社、1972年)、登場人物はおおむね原作に従っているが、けっこう(文字通り)脚色した部分も多い。
エロイーズ(スーザン・ヘイワード)の不思議な性格をもった娘ラモーナの出生の秘密などは原作にはまったくない、いかにも映画的な設定になっている。エロイーズが酒びたりになっている事情は原作よりも映画のほうがぼくには腑に落ちるけれど、きっと映画を見たサリンジャーは激怒しただろう。
今回のサリンジャー再読の最大の収穫は、この「愚かなり我が心」の主題歌、ヴィクター・ヤング作曲の “My Foolish Heart” を知って、その曲が気に入ったことである。しかも、かつてのあこがれのジュデイ・オングも、NHKの “My Favorite Songs” という番組でこの曲を歌っていた。
今もYouTube でこの曲を聞きながら書き込みをしている。
さて、「ある少女の思い出」や「ブルー・メロディ」はどうするか・・・。『ナイン・ストーリーズ』に収録された「エズミに捧ぐ」はスラウェンスキーでは高く評価されていたが、これも心配である。
サリンジャーは、ぼくにとっては『ライ麦畑でつかまえて』の作者としてだけ記憶にとどめておいたほうがよいのかもしれない。
2021年11月12日 記