気ままに

大船での気ままな生活日誌

京都で小村雪岱に出会う

2010-06-09 18:10:43 | Weblog
奈良旅行の初日、お昼頃、京都駅に着いた。せっかくだから、半日、京都で遊ぶことにした。近場で、青葉の清水寺を観てから、三年坂を降りて、龍馬のお墓参りをすることにした。清水寺は紅葉の名所だが、青紅葉も素晴らしい。清水の舞台を観て、ひと回りすると、突然、暗雲が立ち込めてきてぽつりぽつりと。予報は晴れだったし、少し前まで青空だったのに信じられない急変だった。

しばらく、山門の下に雨宿りしていたが、なかなか止まない。小降りになったので、三年坂の喫茶店まで行き、そこでしばらく様子をみた。30分ほどして、雨が上がり、青空がみえてきたので、外に出た。時間のこともあるし、また突然の雨の心配もあったので龍馬の墓は中止と決心した。すると、ちょっと歩いたところに、清水三年坂美術館があり、そこで、なんと”小村雪岱展”をやってるではないか。小村雪岱は最近好きになった画家で、挿絵、美人画、本の装幀、舞台装置と幅広く、大正から昭和初期に活躍した。ぼくはとくに、雪岱の描く、江戸の茶屋の看板娘、笠森おせんが大好きだ。このブログでも、おせんの物語を挿絵つきで、5回に渡って連載したことがある(汗)。埼玉でも小村雪岱展を観た。京都で、それも清水寺の近くで、小村雪岱をみられるなんて夢にも思わなかった。雪岱さんが呼んでくれたとしか思えない。

雪岱の唯一の弟子であった故山本武夫氏の雪岱コレクションをこの美術館が所蔵しているのだ。肉筆画が主だが、挿絵、木版画、ミニ舞台装置まで展示されていた。おせんちゃんはもちろんいたし、”お伝地獄”の、高橋お伝の刺青を彫られている場面や傘、そして、雪の朝、青柳、落ち葉等々の名画。泉鏡花の”日本橋”の装丁等々。あ、そうそう、吉川英治の本の挿絵や菩薩像などの模写や下絵など珍しい作品も楽しむことができた。
。。。

当美術館オリジナルの絵ハガキ5枚セットを買ってきたので紹介したい。

”赤とんぼ”と ”桜”

”盃をもつ女”

肉筆画(題名なし;笑)

”夕涼み” おせんちゃん


江戸のいろはかるたの”い”は、”犬も歩けば棒に当たる”。京都では”一寸先は闇”。何に出会うかわかりませんね。とにかく歩きましょう(汗)。うれしい出会いだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大遣唐使展(2)

2010-06-09 10:47:27 | Weblog
さて、前回のつづき。今度も順不同、独断と偏見感想(笑)。


”吉備大臣入唐絵巻”(第一巻と第四巻)。ボストン美術館所蔵で、27年振りのお里帰り。絵巻物語なので、もちろん面白おかしくしている。遣唐使の吉備真備が入唐後、皇帝に幽閉されてしまうが、当時、日本の知識人は誰でも読んでいた”文選”を読解して驚かし、また囲碁の対決では、目を盗んで、ひとつ碁石を飲みこんでイカサマ勝ちし、また鬼になった安倍仲麻呂の助けもあったりして、遂に無事帰国するという奇想天外な物語である。遣唐使船の形なども分かる貴重な平安絵巻の傑作といわれている。途中、第一会場から第二会場(本館)に通じる地下回廊に、この絵巻の映像コーナーがあり、それも観てきた。正倉院展のときは新館だけだから、展示物の多さを物語る。

絵巻といえば、”東征伝絵巻”(唐招提寺所蔵)も忘れられない。先の吉備真備の第二回目帰国時、別の船に乗り、来日した鑑真和上の物語。遣唐使に乞われて、何度もの来航に失敗し、この遣唐使船により成功し、薩摩に辿り着くのだ。翌日、唐招提寺で行き、鑑真座像にお参りした。

遣唐使は、本展覧会のキャッチコピー”命をかけても伝えたかった”にあるように、唐に渡るのには命がけだった。前期の朝鮮航路は比較的安全だったが、白村江の戦いで、倭国の同盟国、百済が負けてからは、その航路はとれなくなり、東シナ海航路となり、多くの船が荒海に呑まれてきたのだ。それでも、圧倒的に優れた文化を吸収しようと(朝貢の意味もあるが)、当時の我が国のエリートたちが命がけで船に乗った。そして帰国を果たした人々は、多くの先進文化を身につけ、その後の日本の文化に大きな影響を与えた。

たとえば、仏像。遣唐使は唐の仏像を観て、詳細に写生して、帰国後、それをもとに、仏師が腕を磨き、日本でもそれに類似した仏像を造れるようになった。その代表格が、ちらしの表を飾った、ふたつの観音様である。会場でも並べて展示してある。左が唐代の石仏を代表する観音菩薩立像(ペンシルバニア大学所蔵)で、右は薬師寺の聖観音菩薩像(ブロンズ製)である。非常によく似ている。顔の表情、写実的なスタイル、観音様に失礼だが、唐の観音さまのお腹の方が少々メタボになている点は違うけど(笑)。でも唐の当時の時代では、腹部がフクれているのが特徴だそうだ。ぼくは薬師寺の観音様の方が好きだ。腰のくびれもいい(汗)。翌日、薬師寺を訪ねたら、同じ仏像があったのには驚いた。でもこんな掲示に気付いた。”本物の観音様は現在、奈良博にご出張中です。この仏像さまは影武者です”こういう意味のことが書いてあった。それにしても、見事な”贋作”だった(笑)。


最澄と空海も、延歴23年の、20数年ぶりの遣唐使として一緒に唐に向かった。司馬遼太郎の”空海の風景”を久しぶりに本棚から取り出して読んだ。当時、最澄はすでに天下に知られた高僧で、天皇や藤原氏からも認められ多額な公的な援助金を得ている。一方、空海はまだ無名僧で、得度したばかりだったが、最澄に負けない自信はあり、あれこれ手を回し、遣唐使のメンバーに入ることができた。しかし、公的な財政的支援はほとんどなかったが、讃岐佐竹氏や四国の豪族たちから多額な寄進を受けた。最澄はもともと短期留学生で目的を果たすとすぐ帰ったが、空海は20年留学生として採用されたが、たちまち真言密教を自分のものにし、1年余りで帰国を果たした。そしてそのとき、私的経費で、大量の経典、密具、法器を持ち帰ったのだ。それらの法器類の展示もあった。緒尊仏がん(携帯用の10センチ四方ぐらいの小箱で、中に25体の仏像が彫られている)とかの多くの法具なども持ち帰ってきている。下図は金胴密教法具である。



うつくしい仏像さんや数々の名品。近ければ、もう一度、行きたいところだけど、次回の関西行きは祇園祭までがまん。

菩薩半跏像(フィラデルフィア美術館所蔵)と十一面観音立像(京都 安祥寺所蔵)

照夜白図(メトロポリタン美術館所蔵)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする