山本周五郎の没後50年を機に制作されたBS時代劇”赤ひげ”が昨日から始まった。黒澤映画では、三船敏郎が演じた赤ひげ先生には船越栄一郎、加山雄三が演じた若き医師には中村蒼という配役だ。どちらもぴったしの役で、今後が楽しみである。

さて、このドラマをみていて、だいぶ前に訪ねた神奈川近代文学館の山本周五郎展を思い出した。そういえば、まだ、感想記事を書いていなかった(汗)。あわてて、ちらしやメモを取り出したところ。
この”赤ひげ”もそうだけど、山本周五郎の作品はよく映画化されたり、テレビドラマにもなっている。それらの展示もあった。数えきれないほどあるが、誰でも知っているものをいくつか上げると、樅の木は残った、五瓣の椿、椿三十郎(日日平安が原作)、どですかでん(季節のない街)、青べか物語、雨あがる、などなど。人生をひたむきに生きる人間を描いた作品が多い故だろう。
展覧会は次のような展示構成になっている。
第1部 ひたすら文学を/前半生
第2部 ひたすら人間を/後半生
第3部 山本周五郎を読む
文学展の楽しみは、作家がどんな人生を歩んできたかを垣間見られること。著作は知っていても、意外と作家の人生は知らないもの。
まず、第一部、第二部で知った山本周五郎の略歴を。1903年(明治31年)に山梨県北都留郡初狩村(現大月市)に生まれた。4歳で東京の王子へ。ほどなく横浜へ移り、西戸部小学校、西前小学校へ。そのときの先生に君は文章がうまいので、小説家になるよう勧められたという。その言葉が後の人生に影響したそうだ。
卒業と同時に東京木挽町(銀座二丁目)の質屋、山本周五郎商店に徒弟として住み込んだ。ところが、関東大震災で商店は焼失してしまった。そのとき、今後は文章で身を立てようと思う。のちのペンネームは、ここから来ているそうだ(笑)。それだけ親父さんを慕っていたのだろう。
その後、豊橋、神戸に転居。再び上京。帝国興信所(文書部)に入社。そして、1926年(大正15年)に文芸春秋4月号に”須磨寺附近”が掲載され、文壇出世作となった。1930年(昭和5年)、看護婦の土生きよいと出会い、結婚。このときの、気持ちが綴られた文章も展示されていたが、うれしさが素直に表現されていて、微笑ましかった。1931年には馬込の文士村の住人となる。
1932年から講談社のキングに”だだら団兵衛”等、時代小説を連載するようになる。また、婦人倶楽部では、各藩の女性を扱う”日本婦道記”を連載して、人気作家となった。これが、直木賞に推挙されたが、断った。”小説にはよき小説とよくない小説があるだけ”というゆるぎない信念があり、その後も、あらゆる賞を断った。城山三郎もそうだったが、最近、そういう気骨のある作家がいないような気がする。あるいは、いるのだが、候補にも上がらないだけかも(笑)。
1945年、2男2女に恵まれた伴侶、きよい(享年36歳)が死去。翌年、自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区本牧に転居。ここで、再び神奈川県との縁が出来、本展がここ、かなぶんで開催されることになったのだ(笑)。この地で、名作がぞくぞくと誕生する。1959年、”樅の木は残った”が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退。1961年、”青べか物語”が文春読者賞に選ばれるが辞退。そして、1967年に死去。享年63歳、鎌倉霊園に眠る。
第3部 山本周五郎を読むでは、次の三節に、それぞれ関連作品が紹介されている。
人情のぬくもりと悲哀/季節のない街、柳橋、赤ひげ等
道をきわめる/モミの木は残った等
ひたむきに生きる/日本婦道記、花弁の椿等
。。。。。
日記と自筆の著作目録(写真は公式サイトから借用)

原田甲斐/続樅ノ木は残った(原稿)



とても、面白い展覧会だった。