こんばんわ。
”徒然なるままに”シリーズ第〇弾です(笑)。午後の中途半端な時間からはじまる竹内整一先生の”徒然草を読む”の受講の日の出来事を綴るシリーズ。今日は、帰り道のこと。
昨日までの厳しい暑さとは違って、今日は、幾分、凌ぎやすい。で、帰り道は遠回りして。それが良かった。暫く振りにカルガモ母子に再会できた。きっと、母子とも暑さがやわらぎ、ホッとしたのでは。気持ち良さそうに休んでいました。
四羽とも元気。でも、7月15日以来だから、もう少し大きくなっていてもいいはず。暑さ負けかも。
。。。。。
今日の徒然草は、ぼくの好きな、第155段が入っていた。季節の移り変わりは、例えば、夏という季節が暮れきって秋になるのではなく、夏の中にすでに秋の気配が通っているように徐々に進む。それでも四季には春夏秋冬という順序がある。しかし、人間の場合、死はそんな順序にかまわず、いきなりやってくる。しかも、前からやってくるばかりとは限らない。後ろからだってやってくる。
第155段の原文。後半部だけ。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月は小春の天氣、草も青くなり、梅も莟みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる氣、下に設けたる故に、待ち取る序、甚だ早し。生・老・病・死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期は序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。
徒然なるままにオオモクゲンジの袋状の実。今日の公開講座のあった大学の門の脇に。
今宵のお月さま。あと3日で満月。台風が来そうで心配。
それでは、おやすみなさい。
いい夢を。
縄文のビーナス