おはようございます。夜中の嵐がおさまったようです。今朝の酔芙蓉の哀れなこと。傷だらけの花を咲かせていた。さて、今朝の話題は、日本橋高島屋で開催中の追悼/山崎豊子展についてです。追悼というのは三回忌記念ということ。
家内が山崎豊子フアンで、もう先に見にきている。負けてはならぬと、九月の晦日に展覧会場に入る。ぼくは運のいい人で、入場券購入の列にいると、ご婦人がそっと寄ってきて、どうぞこれをと、招待券をくださった。余っているからということだった。実は先日の横浜高島屋のときもそうだった。ついでながら、歌舞伎座でも3F席だけどと頂いたことがある。いい男だと、得することが多いノダ(爆)。
ぼくは、山崎豊子の小説は、ほとんど読んでいないが、映画化、テレビドラマ化されたものはほとんどみている。白い巨塔、不毛地帯、華麗なる一族、大地の子、沈まぬ太陽、等。最近、霞んできたぼくの頭でも、すらすらと題名をあげることが出来るほど、どれもこれも、印象に残る超大作ばかり。
山崎豊子が生涯、大切にしていた手紙が展示されている。職場(毎日新聞)の先輩、井上靖からもらった、直木賞受賞時のお祝いの手紙だ。そこには、直木賞おめでとう、橋は焼かれたと書かれていた。退路を断ち、もう小説家一本で生きていけ、という意味。この”壮絶な言葉”に将来の決心がついたという。
1945 年3月13日からはじまった大阪大空襲時の本人の日記も公開されている。実家の昆布店は焼かれ、恐怖の体験がつづられている。のちの、戦争の非情さを描く”不毛地帯”や”二つの祖国”の執筆の動機になったのであろうか。
良く知られているように、相当な取材魔である。取材ノートは約980冊、カセットテープが5500本、それらの一部が展示されている。取材した人の数は5300余り。取材のために、世界中を巡ぐり、”大地の子”では、中国の奥地まで旅した。当時の胡主席にも会い、いきなり”おたくの国の官僚組織は壁が厚く、真実がみえない!”と迫ったらしい(笑)。主席は”たしかに、よくない。中国をうつくしく書かなくていいです、欠点も影も書いてください、ただ真実を”と応じたらしい。
志摩観光ホテルが定宿で、原稿はここで書き始める。小説のヒントもここで得たものがある。晩餐の中央に神戸の財閥の家族が食事をしていたが、家族とは思えぬ美女が二人いて、そこから、いろいろ想像し、”華麗なる一族”の構想が出来上がったそうである(笑)。
書斎が再現されている。ワンコの写真が3枚。愛犬家だったようだ。スーツケースが三つ。そのひとつがぼくのとそっくりだった。芸能人には引退があるかもしれないが、芸術家には引退はないと、亡くなる直前まで執筆活動をつづけていた。享年89歳。
仲代達也、田宮二郎、渡辺謙らの名優が出ている映像があちこちで見られ、また山崎さんの華やかな衣装の展示があったりして、バラエティーのある、とても面白い、見応えのある文学展であった。


これを書き終えたら、雨があがり、西の空が青空に。さあ、取材に出掛けよう!(汗)