気ままに

大船での気ままな生活日誌

五臓ないなら、ないように生きる 安藤忠雄

2022-03-13 09:27:01 | Weblog

おはようございます。

ぼくが入院した翌日の朝日新聞の特集記事を家内がとっておいてくれて、退院してから渡された。年とってから病気をすると、いよいよお迎えがきたかと弱気になるが、これを読んで、勇気100倍となった(笑)。

世界的建築家、安藤忠雄さんは、現在80歳だが、68歳と73歳のとき、癌が見つかり、何と胆嚢、胆管、十二指腸、すい臓、脾臓を全摘出した。”5臓なしの身体”になったのだ。ふつうなら、しょぼんとしてしまうところだが、安藤さんは、5臓がないなら、ないように生きる、と決めた。そして、退院後は1日1万歩歩き、昼食は1時間かけて食べ、その直後は休憩するように生活リズムを変えた。脾臓がないから日に6回、血糖値を測定し、インシュリン注射を打つ(ぼくも経験があるが結構めんどう)。これで、今のところ、不調もなく、かつ仕事も続けているそうだ。

安藤さんの履歴は、よく知られているように、経済的理由などから大学に行かず、17歳のときプロボクサーになったが、ファイティング原田(僕らの時代だね)の試合を見て、この世界では一流になれないと止め、建築を目指す。学歴がなくてもあきらめず、独学で名建築などを必死に勉強し、世界的建築家になった。米国のいくつかの名門大学の客員教授になり、東大建築学科の教授まで務めた。また、建築家のノーベル賞といわれるプリツカー賞も受賞している。この負けん気は、宮本武蔵の”負けたらおしまい”の覚悟に学んだという。

”5臓がないなら、ないように生きる”という考え方は、自分が大阪人であることに関係しているのではという。どんな状況になっても、ないならないように生きればいい、それが古き良き大阪人の考え方なのだそうだ。

さいごに、安藤さんは、自分の癌より心配しているのは、下降しつづける日本の社会のことだという。政治や経済のこともあるが、一番、気になるのは、希望を感じている人が少ないことだそうだ。でも、他人のせいにしてもしゃーない、希望は自分で作り出さないとね、とぴしゃり。

さて、今日から、のんびり養生は止め、安藤式積極養生で行こう(笑)。

。。。。。

安藤忠雄さんの建築は魅力的だ。展覧会や実際の建築をみている。そのいくつかを。

光の教会(茨木市)(国立新美術館の安藤忠雄/挑戦展で原寸大再現されたもの)

宇野と高松を結ぶフェリーの中間にある直島。直島はアートの島としても知られる。その中心的な存在が、安藤忠雄設計の地中美術館。名前のように、美術館は地中に埋まっていて、建物の姿がみえない。

上空から見た地中美術館。△や□は自然光の取り入れ口。本館はこの下に埋まっている。

悩んでもしゃーない、覚悟を持って立ち向かう。安藤忠雄

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春爛漫の朝散歩

2022-03-12 15:22:14 | Weblog

こんにちわ。

この暖かさでご近所の春の花々が一気に開いたようだ。まさに春爛漫。楽しい朝散歩になった。

先ずは大船の名花、玉縄桜から。満開になりました!

大船生まれの早咲き桜。詳しくはここで。

寒緋桜も一気に開いた。

近くの女子大は卒業式らしい。

去年あたりから咲き始めた河津桜の若木も、今年は一人前に。

その下のオオイヌノフグリも満開

トサミズキまで!

ハクモクレンは明日にでも!

モクレンはもうこんなに。

シデコブシも早い!

遅咲きの梅が満開に。

雲南黄梅

ユキヤナギ

サクラソウ

大船の名花ではじまった”春爛漫”、締めは遠く、九州は五島の名花で。赤い花びらを白く縁取った、五島が誇る幻の椿"玉之浦"。これを近所で見られる幸せ。

この"玉之浦"は、炭焼を生業としていた故有川作五郎さんがいつもの山(父ケ岳、七ツ岳)で偶然、見つけたとのこと。昭和22年に。同世代だね(笑)。

すばらしい、春爛漫の一日でした。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉同人会・春の映画会/山内静夫追悼 山田洋次&倍賞千恵子のトークも

2022-03-11 14:29:32 | Weblog

こんにちわ。

先日、近くの鎌倉芸術館で、鎌倉同人会”山内静夫追悼”春の映画会が開催された。コロナ禍で3年振りの開催となった。ここは松竹大船撮影所のあった場所で、山内静夫さんはここに永く勤務されていた。鎌倉文士の代表格の里見弴(とん)の四男で、松竹に入り、”彼岸花”、”秋日和”、”お早よう”など小津安二郎作品のプロデューサーを務めた。毎年、この会に映画関係者を呼び、トークショーを企画し、司会もされていた。その山内さんが昨年、96歳でお亡くなりになった。

今回は、山内静夫さんの追悼ということで、親しかった山田洋次監督と、寅さんの妹、さくら役の倍賞千恵子のトークショーが組まれ、その前後に山田監督の最近の作品、男はつらいよ50/お帰り寅さん(2019)キネマの神様(2021)が上映された。

山内さんはとつとつとながらも相手から面白い話を引き出すのが上手だった。新司会者もがんばって、実は、山内静夫さんは寅さんの最初の恋敵だったんですよ、と山田監督から面白い話を聞き出した。第1作となる”男はつらいよ”のマドンナは、御前様(笠智衆)の娘(光本幸子)だった。寅さんが彼女に一目惚れ。でも、彼女に婚約者がいた。それを誰にするか、寅さんにあきらめてもらえるような真面目そうな男、そうだ、この男しかいないと選ばれたのが、俳優ではない松竹社員の山内静夫さんだった。この映画が大当たり。当初予定していなかったシリーズものになり、何と50作にまで続いた。その最初の寅さんの恋敵に俳優でない山内さんがなったのだからすごいこと。きっと天国でいばっているのは(笑)。

ふたつの映画の裏話も面白かった。”男はつらいよ50”では、寅さんの甥の満男(吉岡秀隆)と初恋の人イズミ(後藤久美子)の再会がこれまでの登場人物の“今”と共に綴られていくのだが、吉岡秀隆をどんな職業にするかだいぶ迷ったらしい。サラリーマンや官僚には似合わないし、結局、売れない作家がいいだろうということに落ち着いたようだ。さくらさんも同感だわと(笑)。

”キネマの神様”は1/3ほど撮ったところで、いよいよ主役の志村けんの撮影に入ろうとしたとき、コロナで急死した。結局、代役を沢田研二が引き受けてくれた。天下の三枚目から天下の二枚目への変更だったが、もともと、沢田と志村は同じ事務所で、沢田は志村の”だいじょうぶだぁ”に準レギュラーで出ていたこともあり、適役だったかも、と。実際、老いたゴウ役が似合っていた。

倍賞千恵子さんはもう80歳になるが、まだ現役で、アカペラで”さくらのバラード”を歌ってくれた。とてもいい歌で、寅さんも草場の影で喜んでいることだろう。

さくらのバラード 倍賞 千恵子

ふたつの映画は映画館で見ていて、感想文を書いているので、ここでは省く。

男はつらいよ50/お帰り寅さん(2019)

キネマの神様(2021年)

在りし日の山内静夫さん。この日は香川京子さんとのトークショー。

2011年3月11日は、山内さんは、三国連太郎さんとのトークショー。その最中に東日本大震災が起きた。

それでは、みんさん、今日も一日、お元気で!

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狂ったサル 

2022-03-10 14:28:56 | Weblog

こんにちわ。

ばかな戦争を仕掛け、なんと原発施設まで攻撃し、さらには、核の使用までちらつかせるプーチンの顔を見ていて、思わず書棚から取りだした本が”狂ったサル”。

著者はビタミンCの発見でノーベル賞をとられたセント=ジェルジ博士。 国弘正雄 訳の、1972年の初版本(サイマル出版会)。ぼくの悩み多き20代、青春真っただ中の頃に読んだ古ぼけた本だ。みかけは古くても、中身は新鮮だ。なにせ、”狂ったサル”の代表が連日、テレビに現れているのだから。

どんな本か。人間は狂ったサルになってしまったのか、いまわしいナチズムとベトナム戦争に抗してきた体験をもとに、科学者の厳正な目で、自滅の危機にたつ人類の愚かしさを憂慮、痛烈に批判した珠玉のエッセイ集

人類は20世紀に入り、劇的に変わった。エックス線、電子、放射能、量子という4つの重要な発見があり、その後、相対性理論の発見も加わり、一気に次元の違う時代に入った。それまでは、人間の五感で知り得た世界だったが、その後は、五感だけでは認知できない未知の宇宙的世界にひとりぼつねんと置かれた状態だ。しかし、頭脳は洞窟に住んでいた原始時代とほとんど変わっていない。その頭で考える応用編は愚かなことばかり。核兵器をつくり、それをどんどん貯めこみ、今や(当時)、地球上の全人類を三度も殺戮できる量に達している。

ここでは触れられていないが、原発も同様だ。”トイレのないマンション”に例えられるように、途方もない未来にまで影響が及ぶ核のごみ処分のことも十分考えず実用化した。また、テロリストの格好の標的になることも初めから心配されていた。

1972年、セント=ジェルジが唱えた”狂ったサル”は、ちょうど半世紀後、ますます狂暴になったようだ。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミツマタ物語

2022-03-08 11:45:35 | Weblog

こんにちわ。

ぼくの朝散歩道の川沿いには玉縄桜だけでなくミツマタも良く咲いている。なかなか立派な成木で、4株ほど並んでいる。

ぼくが入院する前はひとつも開花していなかったが、ひと月もたつと、さすが、満開になって迎えてくれた。

バックは椿の花。

このミツマタは恐らく、このプロムナードが平成15年(2003年)に完成しているので、そのときに植栽されたと思われる。ぼくが定年後、こちらに越してきたのは、2005年4月だから、まだ幼木だったはず。あまり覚えがない。その時代の写真も撮っていない。その後、すくすく伸びて、もう来年は成人式を迎える(笑)。そのときは、是非、記念写真を!

記念写真といえば、令和元年のミツマタ開花(1月31日)は撮っている。ミツマタ15の春だ。元服の春か。

ミツマタは、その枝が3本ずつに分かれるので、そう名付けられた。漢名は”黄瑞香(おうずいこう)”で、黄色い花が咲く沈丁花を意味しているようだ。別名には、「三枝(サキクサ)」「三枝(ミツエダ)」「三叉(サンサ)」「三股(ミツマタ)」「結黄(ムスビキ)」「数珠草(ジュズソウ)」などがある。ミツマタの樹皮は楮と共に高級和紙の原料と知られ、とくにミツマタは紙幣の原材料にもなる。

春されば 先ず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあれば 後にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)(柿本人麻呂)万葉集にも詠まれている。(春が来ればまず真っ先に咲く三枝のように幸いならばまた逢えるだろう。そんなに恋焦がれないでくれわが愛しい人よ。)

小田急線高座渋谷の常泉寺がミツマタの名所であることを知ったのは、だいぶ遅れて、2015年のことだった。家内と初めて訪れたとき、3月も下旬だったが、ミツマタはまだ花盛り、花桃はじめ、しだれ桜なども見頃になっていて感激した。それ以来、毎春、欠かしたことはない。とうとう、今年は欠かすかも。来年はリベンジ!

2015年3月29日常泉寺参道 ミツマタと花桃

黄色と赤花のミツマタが咲き揃う。

境内の羅漢さまとミツマタの花

園芸品種の赤花三椏(あかばなみつまた)。

なお、最寄り駅の高座渋谷駅前で忠犬ハチ公に出会えたのもうれしいことだった。詳しくはここをどうぞ。山手線渋谷駅のハチ公ともつながりがある。

鎌倉市内のお寺など、あちこちでミツマタを見ることができる。

長谷寺

大船フラワーセンター

円覚寺の黄梅院。ここのは、黄色系であるが、白っぽく上品な感じ。

東慶寺のも。

都内でも、東御苑などあちこち。

前回の”玉縄桜物語”につづいて、”ミツマタ物語”としてみました。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉縄桜物語

2022-03-06 14:20:17 | Weblog

こんにちわ。

退院後、徐々に歩数を増やしているが、まだ、いつもの朝散歩の半分程度。散歩道の川辺に、大船フラワーセンターが育成した玉縄桜が、併せれば10株ほど植栽されている。例年なら二月中旬から咲き始め、今頃は満開のはずだが、まだ、ほとんどが咲き始めで、数株が五、六分咲き程度。まるで、ぼくの退院を待っていてくれたよう(笑)。

メジロも迎えてくれた。

ちょうどいい機会だから、ぼくの過去ページをくくりながら、玉縄桜の歴史を振り返ってみよう。いわば、玉縄桜物語です。

ぼくのブログは2006年8月にはじまるが、玉縄桜の記事は翌07年2月12日が最初である。”ぼくの「春一番」玉縄桜が開花”で大船フラワーセンターで2株、開花しているのを見つけ、それがフラセン育成の品種だと知る。

そして、その翌日、早速、”玉縄桜 出生の秘密”という特ダネを報じている(笑)。フラセンの近くに玉縄図書館があり、そこの郷土資料を集めた書棚から特別な資料を見つけた。その資料とは、センター長さんが、ご自分の月一度の園内ガイドの資料をまとめたもので、「わくわく花散歩」という小冊子。そこに誰も知らない玉縄桜の出生の秘密が詳しく書かれていた。

以下、その日のブログ記事からです。余計なことも書いていますが、そのまま載せます。

タマちゃん(玉縄桜)の生れ年は1969年でした。昭和44年です。ということはアポロ12号の年です、人類月に立つ、歴史的な年に生まれています。タマちゃんすごいね。この年に接ぎ木用の台木をつくる目的でたくさんのソメイヨシノの種が蒔かれました。そしたら、元気よく、ひとより先に芽を出して、ぐんぐん成長しているのがみつかりました。こんな尋常でない子は、ふつうは捨てられてしまうところですが、心やさしい職員の人が、何年も大事に育ててくれました。この子がタマちゃんなのです。

タマちゃんが5才になったとき、初めて蕾をつけ、そして、なんと皆より20日も早く花を咲かせたのです。そして、ひとつの芽につく蕾の数まで多いことも分りました。職員の人は、そのあと、毎年観察して、いろいろなことを調べあげました。そして、1987年に、タマちゃんが、花も恥じらう18才になったときに、「品種登録」申請という、成人式に出られるかどうか審査するところに出されました。そのときの名前は、「かしお桜」として出されていました。このセンターの近くを流れる、柏尾川に因んでつけられました。ところが審査が進んでいくうちに、もうこの名前はよそで使われていると、却下されてしまったのです。タマちゃんの最初の挫折です。やっぱり悲しい過去があったのですね。

そして、今度は名前を「玉縄桜」と変えて申請されました。この辺の由緒ある地名からとったものです。むかし、近くに玉縄城という、小田原北条の出城がありました。難攻不落の山城で、戦国時代、上杉謙信も落とせなかったそうです。今は、そのお城のあった丘には、女の城が建っています、お嬢さん学校の清泉女学院です。ですから、玉縄というと、玉縄城から、「強靱」「男らしい」「武士の一分」といったイメージが浮かんできます。一方、女学院からは、「優しい」「女らしい」「大奥の一分」といった全く逆のイメージも浮かんできます。

でもこの名前のおかげで、1990年、タマちゃんが21才のとき、審査会をパスして、1才遅れでしたが、晴れやかに成人式を迎えたのでした。そして年々、花の数を増やし、ますますきれいになって、そして、目立ちたがり屋の性格がますます冴え、なんだか、年々咲く時期まで早めています。現在、女盛りの38才となり、フラワーセンターの女王(早春の部だけのね)にまでに成長したのです。

その後の遺伝子解析から片親がダイカンザクラ(大寒桜)であることが、判明している。ソメイヨシノとの交雑があったのだろう。一般的に河津桜、熱海桜など早咲きの桜は、濃いピンク色の寒緋桜が片親なので、色が濃くなるが、玉縄桜は、早咲きではあるが、花弁が大寒桜やソメイヨシノのようにうすいピンク色をしているのが特徴。

それ以来、ぼくは玉縄桜に夢中。その年、07年3月に園内に原木を含む4本をみつけ、タマナワ家族とし、原木に”肝っタマ母さん”、玄関口の華やかな木に”タマ三郎”、築山の二本は、叶姉妹にならって”タマタマ姉妹”と名付けた。それ以降、次々と植栽がすすみ、そのたびに命名していたのだが、ついに、名前が出尽くしてて、追加の玉縄桜には、とうとう”無名塾生”の枠に入れることになった。

こうして、繁栄の一途をたどっていた玉縄家族に、2019年に悲劇が襲った。スーパー台風の襲来で、原木(肝っタマ母さん)と名優タマ三郎が倒壊した。幸い、母さんは復活したが、タマ三郎は引退、二代目にとって代わられた。

ここに全盛期のタマナワ家族の写真を載せておこう。2016年3月3日。

タマ三郎

肝っタマ母さん(原木)

タマタマ姉妹(手前が姉)

2016年3月3日は僕自身も全盛期のようで(笑)、この日にこれを含め、4本の記事をあげている。その中に、”京都、早春の旅”が二本も入っている。1日に4,5本、平気で書いていたあの頃の力がなつかしい。6年前というと古希過ぎたばかり。でも、その翌春に、ぼくは第1回目の入院で挫折(笑)。そして、さらに5年振りの挫折で現在に至る。もうあの全盛期には戻れないか。

そして、2019年9月の悲劇。猛烈台風15号が襲来。原木とタマ三郎が倒木。

原木の倒木

タマ三郎の倒木

翌20年、2月27日、肝っタマ母さん、復活!!よかった、よかった。

さらに、2018年の日比谷花壇大船フラワーセンターへのリニューアルに伴い、園内にも「玉縄桜広場」が新設され、一気に仲間が増えた。

なお、玉縄桜は、大船フラワーセンターだけではなく、わが散歩道、砂押川プロムナードのほか、若宮大路、大船観音通りなど鎌倉市各所で増えている。また、市外でも平塚総合公園などに次々と進出している。将来、有望な玉縄桜。ぜひ、みなさんの土地でも誘致して。

昨夕の三日月。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

”鎌倉殿の13人” いよいよ、鎌倉入り ぼくの散歩道へ

2022-03-04 10:34:08 | Weblog

こんにちわ。

地元、鎌倉が舞台の大河ドラマ、”鎌倉殿の13人”を毎回、楽しみに見ている。先週の第8回、”いざ鎌倉”編で、いよいよ頼朝は、石橋山の敗戦から逃れたあと、真鶴から船で房総半島に渡り、そこの有力豪族、上総広常(佐藤浩市)らを味方につけ、大軍を引き連れ、意気揚々と鎌倉に入る。ようやく、ぼくの馴染みの散歩道に入ってくれた(笑)。

今回は、鎌倉入りした頼朝が何処に御所を設けるかも一つのテーマになっているので、ぼくのいつもの散歩道を絡めて紹介したい。現在、療養中で散歩も思うようにならない状況なので、ちょうどいいテーマかも(笑)。

当時、北側(大船側)から鎌倉に入る道は、現在の長寿寺脇から入る亀ヶ谷坂(かめがやつさか)しかなかったようだ。亀でさえ引き返すほど急な坂道だったことからその名が付いたともいわれている。こんなふうな坂道。ぼくの大好きな散歩道。この坂を頼朝らは登って行ったはず。

そして、坂を登り終え、そこからから下ると、扇ヶ谷(おうぎやつ)に通じる。

坂を下ったところに、岩船地蔵堂がある。頼朝と政子の長女、20歳の若さで夭折した大姫を供養するお堂だ。中に白い地蔵尊が安置されている。ドラマではまだ幼児の大姫が政子に抱かれている。

大姫は、のちに木曽義仲の嫡男、義高(染五郎)と婚約するが、義仲の敗北に伴い、頼朝の命で処刑され、大姫は心を病み、早世する。

横須賀線のガードをくぐると、鎌倉駅と海蔵寺方面を結ぶ、現・線路沿いの街道(今大路)が目の前に現れる。右へ行くと、海蔵寺。左へ10分も歩くと寿福寺である。ここに、頼朝の父、義朝の屋敷があった。政子が栄西を招いて跡地に寿福寺を創建、三代将軍、実朝もしばしば訪ね、発展を遂げた。政子と実朝の墓所もある。鎌倉五山第三位の寺院である。

政子と実朝の墓所(やぐら)が並んである。

ドラマでは、地元の豪族、岡崎義実が義朝旧居の付近に頼朝の御所を置くように勧める。この裏手が無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれた谷戸で、鎌倉幕府の御家人、安達盛長ゆかりの無量寿院という大規模な寺院があったと言われている。邸宅もここにあったようだ。現在、この地には鎌倉歴史文化交流館が建っている。

しかし、頼朝はこれを断り、実弟の僧侶、阿野全成の意見を聞く。真っ先に材木座にある現在の元八幡を参拝し、この八幡宮を現在の場所に遷した。ここを平安京の天皇の内裏に見立て、鎌倉の中心として、新しい武家政治の町、鎌倉の都市計画を実施した。

現在の元八幡・由比若宮。これを遷した。芥川龍之介はこの近所で新婚時代を過ごしている。

現在の鶴岡八幡宮

八幡宮の造成予定地から由比ガ浜を望む頼朝たち。

2016年段葛の桜。頼朝が政子の二代将軍源頼家を懐妊したときに安産祈願で造成した。段葛は第二鳥居でおわるが、参道(若宮大路)は由比ガ浜近くの第一鳥居までつづく。

明治15年測量図に基ずく鎌倉

明治15年測量図

さて、頼朝は何処に御所を建てたか。頼朝と義時が鎌倉入りした当時は、鶴岡八幡宮の前を東西に走る六浦路横大路がメインストリートだった。方角も良いということで、この道を中心に、幕府の重要な施設が建てられていく。八幡宮の東側奥に隠れたような大倉の地で、大倉幕府とも呼ばれる。現在は幕府跡の石碑が清泉小学校の敷地内にある以外は、東西南北に門があったとされる名残で西御門(にしみかど)という地名が残っている程度である。

八幡宮の流鏑馬の行われる馬場の東鳥居を出ると、横浜国大付属中、清泉小学校の敷地がつづく。この小径は桜も紅葉もきれいな通りで、ぼくの好きな散歩道。

東鳥居に隣接する横浜国大付属中学校。

清泉小学校付近の紅葉。

この近くに、大倉幕府旧跡の石碑が建っている。

仮御所

この先に、頼朝が鎌倉幕府開府に当たり、鬼門の位置に創建した荏柄天神社がある。

頼朝の墓と義時の墓(法華堂跡)は大倉幕府を見渡せる小高い山の上にある。今、何を想うか、頼朝と義時。

頼朝の墓

義時

これからも、鎌倉殿の13人をぼくの散歩道をからめて、紹介したいと思っている。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の三月のカレンダー

2022-03-01 10:28:35 | Weblog

こんにちわ。

今日から三月。桜の季節であるし、ぼくの誕生月でもある、一年で一番、好きな月。恒例の我が家の3月のカレンダーをお届けします。

ちょっと前に我が家の2月のカレンダーを紹介したばかりなのに、もう3月のカレンダー。それもそのはず、それを投稿した翌日に即入院。3週間も病室に閉じ込められていたのだから。そのとき、末尾に”立春ももうすぐ。2月は、このカレンダーのような景色を見て廻りたいものだ”と願っていたのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。まさに一寸先は闇。

でも、とにかく、無事、退院でき、3月を迎えられ、我が家の3月のカレンダーを紹介することができ、こんなうれしいことはない。

まずは、山と渓谷社の”日本一美しい風景”から。

三ノ倉高原(喜多方市)の菜の花 標高650m、約8ヘクタールの高原。約350万本の菜の花が咲き誇るという。会津盆地が一望、喜多方随一のビューポイントとのこと。

そして、居間の山種美術館カレンダーからは、上村松園の”娘”。春らしい装いの松園美人。でも、やはり、ここは、奥村土牛の”醍醐”の桜にしてほしかったネ。

書斎の鎌倉観光協会カレンダーからは、鶴岡八幡宮の神苑の桜と牡丹。ここは池に面した牡丹苑でもあり、桜の季節に見頃を迎える。桜と牡丹が楽しめる極上の空間。

カレンダーの写真では牡丹と桜の競艶がよく分からないので、昨年3月29日のぼくのへぼ写真から↓

。。。。。

もうひとつおまけに、ぼくが今年1月に登った吾妻山の菜の花の写真。青空と菜の花と富士山。ウクライナ国旗(青と黄)のよう。

ぼくが退院した翌日に突然、ロシア・プーチンのウクライナ侵攻がはじまった。こんなバカな戦争が現代に起きるとは。世界中の人々が許さない。何年か前、訪ねたことのあるベルリンのブランデンブルク門付近で抗議する10万人の人々。

27日、ベルリンの観光名所ブランデンブルク門付近で、ロシア軍によるウクライナ侵攻に抗議する人々(AFP時事)

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする