以前にKAWASAKI(川崎重工業)の記事の中で三式戦闘機「飛燕」のことを紹介したところ、ブロ友のケムシトリー♂さんが愛車に「飛燕」というステッカー貼るぐらい盛り上がっています。(と、思っているのは私だけかな~)
そんなところで、今回はMaj(マジェスティ)やツーリングのネタから外れ、この飛燕のことを紹介したいと思います。
もっとも飛燕については、私が下手に紹介するよりもネット上に多くの情報が紹介されていますので、ここではネットや書物ではあまり紹介されていないことを紹介しましょう。
以下に紹介する父の飛燕の思い出ですが、全くの記憶間違いではなく、断片的に戦記書物に紹介されていますので、おそらく事実であると思います。
時は昭和20年(1945年)の3月17日。神戸・大倉山の高射砲部隊(中部高射砲集団・高射砲第一二三連隊・第四中隊)に配属されていた父は、300機を越えるB29の神戸爆撃に対し、九九式8センチ高射砲で迎え撃っていました。
同じ頃、伊丹飛行場を飛び立った飛燕1型を操る緒方大尉(56戦隊所属)は、神戸上空でB29に対し銃撃を加え1機を撃墜します。しかし銃弾が尽きたのか、最後は体当たりでもう1機を撃墜したのです。
父は大倉山で、小さな飛燕がB29に体当たりするのがハッキリ見えたそうです。その後、飛燕とB29は再度山方面に墜落しました。
翌日、父は憲兵隊と共に再度山方面を捜索したところ、バラバラになった飛燕の残骸を発見。そして、その残骸の中から「緒方」と書かれた飛行靴が見つかりました。
父は上官の命令により、緒方大尉の遺品である飛行靴を伊丹飛行場まで届けたようですが、何せ電車もロクに動いていないような状況でしたから、半日以上歩いて伊丹飛行場まで行ったそうです。
今からおよそ64年近く前に、このようなことがあったことは驚きですね。現在の神戸の状況を見ると想像できないことです。
勇猛果敢にB29に体当たりした、緒方大尉のご冥福をお祈りします。
PS.
父によると、当時の食料状況は最悪で、軍隊といえでも食べる物には苦労したそうです。
父の兄は農家の長男であったことから兵役を免れ、握り拳ぐらいの小さなスイカ(上官に見つからないように)をこっそり大倉山まで持って来てくれたことが、とても嬉しかったと父は言っています。
そんなところで、今回はMaj(マジェスティ)やツーリングのネタから外れ、この飛燕のことを紹介したいと思います。
もっとも飛燕については、私が下手に紹介するよりもネット上に多くの情報が紹介されていますので、ここではネットや書物ではあまり紹介されていないことを紹介しましょう。
以下に紹介する父の飛燕の思い出ですが、全くの記憶間違いではなく、断片的に戦記書物に紹介されていますので、おそらく事実であると思います。
時は昭和20年(1945年)の3月17日。神戸・大倉山の高射砲部隊(中部高射砲集団・高射砲第一二三連隊・第四中隊)に配属されていた父は、300機を越えるB29の神戸爆撃に対し、九九式8センチ高射砲で迎え撃っていました。
同じ頃、伊丹飛行場を飛び立った飛燕1型を操る緒方大尉(56戦隊所属)は、神戸上空でB29に対し銃撃を加え1機を撃墜します。しかし銃弾が尽きたのか、最後は体当たりでもう1機を撃墜したのです。
父は大倉山で、小さな飛燕がB29に体当たりするのがハッキリ見えたそうです。その後、飛燕とB29は再度山方面に墜落しました。
翌日、父は憲兵隊と共に再度山方面を捜索したところ、バラバラになった飛燕の残骸を発見。そして、その残骸の中から「緒方」と書かれた飛行靴が見つかりました。
父は上官の命令により、緒方大尉の遺品である飛行靴を伊丹飛行場まで届けたようですが、何せ電車もロクに動いていないような状況でしたから、半日以上歩いて伊丹飛行場まで行ったそうです。
今からおよそ64年近く前に、このようなことがあったことは驚きですね。現在の神戸の状況を見ると想像できないことです。
勇猛果敢にB29に体当たりした、緒方大尉のご冥福をお祈りします。
PS.
父によると、当時の食料状況は最悪で、軍隊といえでも食べる物には苦労したそうです。
父の兄は農家の長男であったことから兵役を免れ、握り拳ぐらいの小さなスイカ(上官に見つからないように)をこっそり大倉山まで持って来てくれたことが、とても嬉しかったと父は言っています。