今朝の朝日新聞で、俳優の川地民夫さんの訃報が報じられていました。川地民夫さんといえば、鈴木清順監督の映画の常連として知られていた方で、「河内カルメン」「東京流れ者」などに出演されていましたが、私の記憶で一番強烈に残っているのは「野獣の青春」でマザコンの男性を演じたもので、ラストで渡辺美佐子さんの顔をカミソリで滅多切りにするという場面は映画史に残る残酷なシーンだったと思います。鈴木監督作品以外でも当時所属されていた日活映画の脇役として、確固たる地位を占めていらっしゃいました。お通夜と葬儀は遠慮させていただきますが、この場を借りて、改めてご冥福を申し上げます。
さて、マイク・シーゲル監督・製作・脚本、歌はクリス・クリストファーソン、ナレーションはモンテ・ヘルマンの’05年作品『サム・ペキンパー 情熱と美学』を、WOWOWオンデマンドで見ました。ペキンパーの生涯を描いたドキュメンタリーです。
インタビューで登場するのは、ペキンパー自身、アーネスト・ボーグナイン、ジェームズ・コバーン、アリ・マクグロウ、クリス・クリストファーソン、L.・Q.・ジョーンズ、デヴィッド・ワーナー、R・G・アームストロング、ルピタ・ペキンパー(ペキンパーの娘)、ペキンパーの元秘書、元プロデューサー、元脚本家、ペキンパーの評伝を書いた著者2人など、そうそうたる面々です。
ペキンパーはしつけの厳しい父のためにミリタリー・スクールに通わされ、その後海兵隊で働き、そのあとで通った大学では当初の歴史から演劇へと学習の場を移します。本来ならば舞台の演出家となるところを、劇団の夏季公演やテレビ局の裏方として働き、ドン・シーゲルの下で修業を積み、『ガン・スモーク』の脚本家として映像作家のデビューを果たすと、テレビシリーズ『折れた矢』で初出演もこなし、その後も映画『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』などに出演したあと、’60年にテレビドラマ『銃にかけた手』を演出。そのドラマで親しくなったブライアン・キースが監督に推薦してくれたことにより、’61年、『荒野のガンマン』で映画監督のデビューを果たします。テレビ監督から映画監督への転身は、テレビの規制が厳しいことも要因の一つとして挙げられています。キースが前作で共演したモーリン・オハラの弟がプロデューサーとなりましたが、ひどい脚本で編集の最終決定権も持っていませんでした。
次作の『昼下がりの決斗』では編集の最終決定権も持つことができますが、その次の『ダンディー少佐』は編集で作品を台無しにされます。
次の『シンシナティ・キッド』はプロデューサーに無断でヌードを撮影したとして、クビに。その結果、「使いづらい監督」という烙印を押され、数年間仕事を干されます。その間、ペキンパーは酒浸りとなり、やはり第二次世界大戦の経験者であるリー・マーヴィンらと同じようにアルコール中毒になります。
そして’66年になってやっと、ジェイソン・ロバーツとオリヴィア・デ・ハヴィランドの共演による『ヌーン・ワイン』を撮ります。
次作はリー・マーヴィンが原作の映画化を勧めてくれた『ワイルド・バンチ』。最初の撮影の日、メキシコ兵たちが実弾で撃ってきたというエピソードをアーネスト・ボーグナインが冗談まじりに語ってくれます。元は4時間にわたる作品でしたが、プロデューサーによりズタズタに編集されてしまいました。
その次の作品は、ウォーレン・オーツが勧めていた企画で、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホークのバラード』。砂漠の話なのに、撮影日数36日のうち雨の日が21日にもなり大苦戦。雨の日は借り切ったホテルで宴会三昧の日々を過ごします。
その後も『わらの犬』、『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』、『ゲッタウェイ』、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』、『ガルシアの首』、『キラー・エリート』、『戦争のはらわた』、『コンボイ』、『バイオレント・サタデー』と作品を発表し続け、最後は酒とヤクのやりすぎで急逝しました。
実際の映画のシーンやメイキングのシーン、インタビュアーが語る映画撮影の際のエピソードなど、いろんなシーンが用意されており、大変面白く見させてもらいました。サム・ペキンパーの映画を観たことのある方に限らず、映画好きな方にはおススメの映画です。今月一杯ならWOWOWオンデマンドで見ることができますし、DVDも出ているようです。(アマゾンの中古なら送料込みで2650円で入手できます。)この映画を観て、改めてペキンパー作品(特に前回見た時に低い評価をしてしまった『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』)を見直してみたくなりました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
P.S 昔、東京都江東区にあった進学塾「早友」の東陽町教室で私と同僚だった伊藤さんと黒山さん、連絡をください。首を長くして福長さんと待っています。(m-goto@ceres.dti.ne.jp)
さて、マイク・シーゲル監督・製作・脚本、歌はクリス・クリストファーソン、ナレーションはモンテ・ヘルマンの’05年作品『サム・ペキンパー 情熱と美学』を、WOWOWオンデマンドで見ました。ペキンパーの生涯を描いたドキュメンタリーです。
インタビューで登場するのは、ペキンパー自身、アーネスト・ボーグナイン、ジェームズ・コバーン、アリ・マクグロウ、クリス・クリストファーソン、L.・Q.・ジョーンズ、デヴィッド・ワーナー、R・G・アームストロング、ルピタ・ペキンパー(ペキンパーの娘)、ペキンパーの元秘書、元プロデューサー、元脚本家、ペキンパーの評伝を書いた著者2人など、そうそうたる面々です。
ペキンパーはしつけの厳しい父のためにミリタリー・スクールに通わされ、その後海兵隊で働き、そのあとで通った大学では当初の歴史から演劇へと学習の場を移します。本来ならば舞台の演出家となるところを、劇団の夏季公演やテレビ局の裏方として働き、ドン・シーゲルの下で修業を積み、『ガン・スモーク』の脚本家として映像作家のデビューを果たすと、テレビシリーズ『折れた矢』で初出演もこなし、その後も映画『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』などに出演したあと、’60年にテレビドラマ『銃にかけた手』を演出。そのドラマで親しくなったブライアン・キースが監督に推薦してくれたことにより、’61年、『荒野のガンマン』で映画監督のデビューを果たします。テレビ監督から映画監督への転身は、テレビの規制が厳しいことも要因の一つとして挙げられています。キースが前作で共演したモーリン・オハラの弟がプロデューサーとなりましたが、ひどい脚本で編集の最終決定権も持っていませんでした。
次作の『昼下がりの決斗』では編集の最終決定権も持つことができますが、その次の『ダンディー少佐』は編集で作品を台無しにされます。
次の『シンシナティ・キッド』はプロデューサーに無断でヌードを撮影したとして、クビに。その結果、「使いづらい監督」という烙印を押され、数年間仕事を干されます。その間、ペキンパーは酒浸りとなり、やはり第二次世界大戦の経験者であるリー・マーヴィンらと同じようにアルコール中毒になります。
そして’66年になってやっと、ジェイソン・ロバーツとオリヴィア・デ・ハヴィランドの共演による『ヌーン・ワイン』を撮ります。
次作はリー・マーヴィンが原作の映画化を勧めてくれた『ワイルド・バンチ』。最初の撮影の日、メキシコ兵たちが実弾で撃ってきたというエピソードをアーネスト・ボーグナインが冗談まじりに語ってくれます。元は4時間にわたる作品でしたが、プロデューサーによりズタズタに編集されてしまいました。
その次の作品は、ウォーレン・オーツが勧めていた企画で、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホークのバラード』。砂漠の話なのに、撮影日数36日のうち雨の日が21日にもなり大苦戦。雨の日は借り切ったホテルで宴会三昧の日々を過ごします。
その後も『わらの犬』、『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』、『ゲッタウェイ』、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』、『ガルシアの首』、『キラー・エリート』、『戦争のはらわた』、『コンボイ』、『バイオレント・サタデー』と作品を発表し続け、最後は酒とヤクのやりすぎで急逝しました。
実際の映画のシーンやメイキングのシーン、インタビュアーが語る映画撮影の際のエピソードなど、いろんなシーンが用意されており、大変面白く見させてもらいました。サム・ペキンパーの映画を観たことのある方に限らず、映画好きな方にはおススメの映画です。今月一杯ならWOWOWオンデマンドで見ることができますし、DVDも出ているようです。(アマゾンの中古なら送料込みで2650円で入手できます。)この映画を観て、改めてペキンパー作品(特に前回見た時に低い評価をしてしまった『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』)を見直してみたくなりました。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
P.S 昔、東京都江東区にあった進学塾「早友」の東陽町教室で私と同僚だった伊藤さんと黒山さん、連絡をください。首を長くして福長さんと待っています。(m-goto@ceres.dti.ne.jp)