102歳の母逝く!2011/1・28,3:55
本当に大往生でした。102年間もごくろうさまでしたと 母を褒めてやりたいと思います。
大橋絢子は、1909年1月12日、父・孝(よし)、母・スエの次女として、向日町で生まれました。父の孝は、現在の福島県伊達市飯坂中野、 スエは、大阪府島本町大沢の出身です。
絢子と言う名前は、棚橋絢子さんに もらった
当時70歳の「絢子」からその名前をもらったのだと100歳になってはじめて教えてくれました。 インターネットで調べると、棚橋絢子さんは1839年生まれ、失明の漢学者棚橋大作氏と結婚し,貴族の娘の家庭教師や学習院等で教師として活躍した方です。 名古屋市で高等女学校初代の「おなご校長」として評判となり、65歳から100歳まで校長職にあった方で、今なら100歳万歳のテレビに出られていたことでしょう。101歳で亡くなられました。 棚橋さんは、どんな時代でも女性も男性と同じように教育を受けることが大切であると教え続けたと言う方です。本当によい方の名前を貰ったので、棚橋さんと同じように100歳を超えることが出来たのです。 孝の弟・母の伯父さん「大橋五郎さん」が、当時、学習院の教授をしていたので、棚橋さんを尊敬していて、その名前を付けたのだと思います。
牛乳で育てられたから骨太
絢子さんは、口癖のように、姉に続きすぐ自分が生まれたので、母の母乳が余り出なかったので、牛乳で育てられたから骨太で100歳まで生きたのだと言っていました。 小学校は、向陽尋常小学校、向日コミセンの西側に二階建ての校舎がありました。当時の写真を見ると、非常に体格の良い子でした。 父が当時としてはハイカラな人で、女の子に可愛い革靴を、雨降りには長靴を履かせたので、学校で冷やかされて恥ずかしかったそうです。
えっちゃんは10歳でしんだ
次々兄弟が生まれたので、母親代わりに手伝いをしなければならなかったそうです。服をつくってやったり、勉強も遊び相手も、子守もしました。悦っちゃんという妹を一番可愛がっていたそうです。 しかし、その子は10歳で病気で死んでしまいました。
父・孝は、クリスチャンで、
裏の敷地に教会を建て、日曜日には近所の子どもがたくさんきていました。後になって現在のまこと幼稚園・向日町キリスト協会に、移転しました。向日町基督協会の歴史にその経緯が詳しく書かれています。 また孝は、昭和4年、阪急電車が敷設された頃、学務委員や町会議員をしておりました。向日市史に名前が出ています。だから、母は、私が議員に立候補するときも、理解していたようで何も言いませんでした。
日満航路や瀬戸内海別府航路のボーイをしていました。絢子の夫・我々の父ですが、伏見区淀・生津の出で、奥村仙三といい、3人の子をもうけました。仙三は、養子として大橋に入りましたが、海の男で、若い頃は、日満航路や瀬戸内海別府航路のボーイをしていました。 軍隊は海軍でヨットに乗っている写真が残っています。戦争から帰ってきたのですが、自宅で1943年12月6日、年若くして他界しました。
淀には足を向けて寝られない母は、戦争中の大変な時期に女手一つで、3人の子育てをしました。父母と弟が隣の家に住んでいましたので心強かったと思うのですが、食べるものがなくなれば、淀の親父の実家が、農家だったのでリヤカーを牽いて、買い出しに行きました。だから淀には足を向けて寝られないとよく言っていました。帰り道に警察の検問に引っかかり、せっかく買ってきた物を取り上げられたこともあり、ひどい世の中だったと言っていました。
20歳になれば一人前
母の一生を支えてきたのは、若いときに一流の音楽、バレーや踊り、演劇、西洋の映画、等をたくさん見てきたことだと言っていました。 「子どもが20歳を過ぎたら一人前だから、」と何をしていても干渉しませんでしたし、他人の悪口は言いませんでした。 私が、22~3歳の頃勤めていた三菱製紙の総務課長から「お母さん会社にきてください」と、赤攻撃の電話がありました。 母は息子は20歳を過ぎておりますので、自分の行動には責任を持たせています、「私はいきません。」と拒否しました。
中略
生まれて初めての入院・もう退院!!
90歳くらいだったと思うのですが、敬老の日に孫やひ孫と一緒に食事に行きました。帰るときに誰よりも一番に店を出ようとして下駄箱の前で、10センチほどの段を踏み外して大腿骨を骨折してしまいました。生まれて初めての入院でした。それまで病気をしたことがなかったのです。医者は、治るまでに3か月はかかると言いました。しかし、長い間入院するのは嫌だというので2か月だと告げました。 ところが入院した部屋には、母スエの生まれた大沢の人、寺戸の知った方のお子さんがおられて不安はいっぺんに解消、楽しく治療が出来、3か月して退院する時、もう帰るのんか!ですって。 こんな一面がある母でした。
「くよくよしないことやな!」白寿のお祝いを子・孫・ひ孫があつまってエミナースで行ったとき、ひ孫の朔弥君が、「長寿の秘訣はなんですか?」と聞きました。絢さんは一寸考えて「くよくよしないことやな!」と言いました。短い言葉で一生の教訓をズバリと言えるのには人間の達人だと感心しました。
歩けなくなって、ケア回生に来たおかげで、子供、孫、ひ孫、職員の方、同僚の方、長い間あわなかった、兄弟姉妹の子供達、そして、府庁や市役所、社会福祉協議会の方など、こんなに多くの方々に祝福されて100歳を迎えられて、こんなに嬉しいことはない。きっと自宅にいれば、こんな沢山に祝ってもらえなかったと思う。と言って「ケア回生に来てカナン」とはいいませんでした。 そうして「まあ、長生きしてもあんまり良いことはないけど、ちょっとはよいこともある」と言っていました。
長く続く大橋家の家系図を見ると、医者・薬屋・学者・網元・県会議員・学習院の教授まで、たいそうな肩書きの人もいるが、100歳はいない。と説明すると、「そうか!他の人より一寸長く生きてるだけやけど・・・」と澄ましていました。 100歳になれば総理大臣から「慶賀にたえません」と賞状が届きます。私が「表彰状」と言って全文読み、総理大臣「福田康夫」と言いますと、「いま総理大臣は、麻生太郎やで!」とつっこみが入るのです。次々総理が替わったときでもちゃんと覚えているのです。
絢子さんは考えることが世界水準ある時、急に「もうなんにも望むことはない、今日出来たことが明日出来たらそれでよい」というのです。 この言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。 そうです。 野球選手のイチロウ君です。10年間200本以上のヒットを打ち続ける。 その時思いました。 絢子さんは考えることが世界水準だったのだと。 最後の言葉は、「美津子さん。ありがとう。」でした。
しかし、とうとう昨日出来たことが、今日は出来なくなってしまいました。 母が亡くなれば悲しいことですが、102年間も頑張ってきたのですから、その生涯にアッパレマークを貼って上げたいと思います。
どうぞ安らかにお眠りください。
そうしてこれからも、千の風になって我々家族と 世界の人々を見まもってくれると思います。
合掌、!
「千の風になって」を合唱していただいて みなさんと母とのおわかれと致します。
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