昨年の9月から、読書会6冊目の
『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』を
読み始め、今回がいよいよ最終回。
『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』(岩波書店)。
岐阜西駐車場に車をとめてデッキに出たら、
昨日が「岐阜シティタワー43」 のオープンらしく、朝から人だかり。
上野さんから届いた『at』9号、
「ケアの社会学」第8章生協福祉の展開(2)のコピーと、
テーマ関連で、出たばかりの『慰安婦問題という問い』と、
手作りの栗きんとんを持参。
『at』9号
最終回の『生き延びるための思想』は、
10「アジア女性基金の歴史的総括のために」。
1年前に読みはじめたときは難しくして、どうなることか思ったけれど、
最終回の参加者の感想は「ここはわかりやすかったね」。
「えっそうかぁ? けっこう難しいテーマだけど」と思ったけれど、
きっと一年間の成果なのだろう。
巻末の「生き延びるための思想」のロングインタビューを読んで、
改めて、上野さんが「本書を通じてのわたしの思索の到達点」と書く
「第一章 市民権とジェンダー」に戻った。
難解といわれていた第1章と、10章までが円環のように、
参加者のなかで一連のものとして結びついた。
一人で、本を読むもの好きだけど、
この山に上ったような爽快感が、読書会の醍醐味かな。
まさに、今年度のプロジェクトeのキャッチコピー
「本を読むのはエクスタシー」。
参考に持参した『慰安婦問題という問い』には、
上野さんの「歴史の再審のために」が収録されている。
『慰安婦問題という問い―東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』
(大沼保昭、岸俊光編勁草書房/2007/著者・
和田春樹、秦郁彦、吉見義明、上野千鶴子、長谷川三千子、石原信雄、村山富市)
今回の「アジア女性基金の歴史的総括のために」の、
まさに続編のようで、とても興味深く読んだ。
歴史の語り手と聞き手
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「慰安婦」被害者の方たちの告発のアドレッサーは、わたしたち日本国民です。わたしたちは正統なアドレッサーですから、それに応える責任があります。これが応答責任というものです。もう一方で、漏れ聞いた人も漏れ聞いたことによって責任を背負うという考え方があります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・たとえ手を下した当事者でなくとも、戦後生まれの日本人も二つの意味で応答責任を背負っています。一つは日本国家の正負の遺産を受け継いでしまった統治共同体のメンバーである、つまり日本国籍を持っていることで、戦後世代もレジティメイト・オーディエンスになっています。もうひとつは、たとえばパレスチナ問題であれ、イラクの問題であれ、それを漏れ聞いてしまった者には、責任が発生するという考えか方です。わたしはそれを聞いてしまった、だから応答責任がある、ということです。(『慰安婦問題という問い』P129~130)
本書のあとがきに編者の岸俊光さんはこう書いている。
また、本文中では分量の制約で情報公開迂回できなかったが、「歴史の事実を確定しても争点がなくなるとは限らない」という上野千鶴子さんの話は、真実の追究を旨とする新聞記者には衝撃的だった。「各国がシェアできる事実を確定する必要があるはずだ」というわたしの質問に答えられたものである。上野さんは「事実は確定すべきだが、問題はそれをいかに解釈するか。たとえば、原爆投下が終戦を決めたと信じている米国と、どんな理由であれ正当化できないと考える日本の国民のあいだには巨大な認識のギャップがある」と説いた。・・・・・・・・・・・・・・・・・
偶然だけど、この本のことは岐阜新聞の日曜版の書評に載っていた。
慰安婦問題という問い
大沼保昭、岸俊光編
多様な立場の論点
1995年、村山富市内閣の田茂に発足したアジア女性基金の理論的支柱となったのは、本書の編者の一人、大沼保昭であった。
今年3月、基金は364名の被害者への償いを含む12年の活動を終えた。大沼は今こそ慰安婦問題の総括が必要だと考えたのだろう。まず個人の著作として「『慰安婦問題』とは何だったのか」(中公新書)を刊行し、同問題を二つの視角から総括した。
一つは、政府・メディア・NGO(非政府組織)など公共の担い手のあるべき姿は何だったのかという視角。二つには、戦争や植民地支配の被害国の歴史認識にいかに向き合うかという視角。
まずは社会に向け、基金をめぐる全経験を説明した大沼が次に向かったのは、記憶や経験を資料とともに引き継ぐべき若き世代であった。こうして東大大沼ゼミ2004年度の記録である本書が編まれることとなった。
多彩な講師陣のうち、和田春樹、秦郁彦、吉見義明、上野千鶴子、長谷川三千子、石原信雄、村山富市ら7人の抗議と質疑が臨場感あふれる筆致で再現されている。巻末にはもう一人の編者で毎日新聞記者・岸俊光による、収録に漏れた論客の話のまとめも付されて折り有益だ。
三百ページ弱の本ながら、多様な立場を代表する講師陣の主要な論点はスベテ拾われ、それに対する現時点で可能な反論も網羅されている。こうした間然とするところのない本書の姿勢それ自体、左右両翼からの批判の中で基金を存続させてきた大沼の強靭(きょうじん)な意志の現れとみることができる。
強く印象に残った論点を二つ。被害者には首相からのお詫びの手紙が手交された。その際の手紙の格式は国家儀礼上どれほどのものだったのか。文書学的な比較を踏まえた大沼の着眼が鋭い。
二点目は当時の内閣官房副長官・石原信雄の述懐である。本人の証言によって、強制性を認定した鑑定の苦悩と決意の深さをよく伝え貴重だ。
(勁草書房 ・2940円)(加藤陽子・東大准教授)
(2007.10.14 岐阜新聞)
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今回、最終回ということで、テーマに関する本を関連で何冊か読んだ。
『まんが「慰安婦」レポート(1) -私は告発する』
(チョン ギョンア (著), 山下 英愛訳/明石書店/2007)
「漫画を通して真実を見極める」
全3巻シリーズの第1巻目。
韓国で評判になった漫画本の邦訳である。
日本軍に性奴隷にされた当事者の証言が
よみやすい漫画でつづられているが、内容はずしりと重い。
12月と来年刊行される2冊もぜひ読みたい。
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「慰安婦」問題の歴史と現在を描き06年韓国で反響を呼んだルポ漫画。1巻ではオランダ,韓国の被害女性が沈黙を破り告発に立ち上がっていく過程,日本軍‘慰安所’制度の歴史,今を生きるハルモニたちの日常が,親しみやすい絵と文で描かれる。
『「慰安婦」レポート』を出版して
題名に示したように、このまんがは日本軍‘慰安婦’に関する物語である。第2次世界大戦当時、日本軍は自らを‘慰安’するために、アジアと占領地の女性たちを拉致(らち)し、性奴隷にした。彼らはこの組織的強姦制度の獲物を‘慰安婦’と呼んだ。戦争は終わったが、‘慰安婦’の真相は明らかにせず、50余年間も闇に葬り続けることに成功した。日本社会がそれを隠そうとしたのは言うまでもなく、戦後の新たな冷戦体制のもとで、国際政治は日本の戦争犯罪を可能な限り覆い隠す方向で進められた。その上、被害当事国たち、特に解放された南北の朝鮮社会もまたそのことを明らかにしようとはしなかった。結局、高齢になった被害当事者たちが強いられた羞恥心(しゅうちしん)を振り払いみずから立ち上がってようやく、‘慰安婦’という名前は歴史の表面に姿を現すことができた。
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以前紹介した『和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島』
朴裕河著/佐藤 久翻訳/平凡社/2006/11/21)再掲(2007.4.4)
上記の二冊の本をはじめて読んだとき、わたしは泣いた。
刊行されたばかりの
『朝鮮近代文学とナショナリズム―「抵抗のナショナリズム」批判 』は、
在日の問題にかかわり、在日朝鮮人作家の本を読んできたわたしにとって、
非常に興味深いものでした。
『朝鮮近代文学とナショナリズム―「抵抗のナショナリズム」批判 』
(李 建志著/作品社/2007)
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韓国・朝鮮の「民族文学」、そして「在日朝鮮人文学」を読み解きながら、聖域化されてきた「抵抗のナショナリズム」を批判的に分析する画期的な試み。
「抵抗のナショナリズム」には、「自らの全肯定」という問題、あるいは自らの中にある「加害者性」と「被害者性」のせめぎあいを捨象し、後者に一元化・単純化していくという問題がひそんでいる。(中略)今までの研究動向でいうと、マジョリティとマイノリティの位置関係があまりにも明白であり、固定した位置からの発言となっているため、マジョリティの落ち込んでいる陥穽に気づいていない。自らの中に「加害者性」「被害者性」の両方を認め、研究対象における「闇」を見つめた上で、その「闇」を共有できない重さを背負っていくことこそが、求められているのだ。(序章より)
序章 「反権力」にも「権力」は宿る
第1章 梁石日の読まれ方―「在日朝鮮人文学」という「外地」
第2章 「母語」と「祖母語」の狭間にあるもの―李恢成、金城哲夫、鳩沢佐美夫
第3章 総動員体制下の朝鮮における支配言語と母語―崔載瑞をつうじて
第4章 韓国「建国理念」の文学的展開―「南韓」文壇のイデオロギー統一と金東里
第5章 「民族文学史」に対する覚書―林和、白鉄、安含光をめぐって
第6章 在韓華僑物語―チャジャン麺と文化表象
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そろそろ字数がいっぱいなので、つづきは次の記事で紹介しますね。
(かたい記事ばかりだとお花のランキングは下降線・笑)
いつものことだけど、本を読み終えて「ひな野」に食事に行った。
2時間ほどおしゃべりして、帰ってから畑で野菜を取り遅めのお茶。
コーヒー豆が切れていたので、岐阜でプレミアム新豆を入手して、
友人からいただいた栗尽くしのケーキ。
ただし、食べたのは、一個だけですから(笑)。
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