みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

「軍隊は住民を守らない」~沖縄「慰霊の日」に非戦を誓う/入梅前の花木の苗植え

2010-06-23 14:25:09 | 花/美しいもの
沖縄戦から65年後のきょう、糸満市摩文仁の平和祈念公園で
「沖縄全戦没者追悼式」が開かれました。

菅直人首相も参列したけれど、式典でのあいさつは、
「いまだに沖縄には米軍基地が集中し、大きな負担をお願いしている。
負担をかけてきたことに全国民を代表し、おわびを申し上げる。
沖縄の負担がアジア太平洋地域の平和と安定につながってきたことについて、率直にお礼の気持ちも表す。
米軍基地にかかわる沖縄の負担軽減と危険性除去に一層、真剣に取り組むことを約束する。」
とシンプルなものでした。

わたしは沖縄全戦没者追悼式典をテレビで見ていたのですが、
最後に朗読された基地のない暮らしを願う高校生の「平和の詩」は、
沖縄のひとびとの悲しみと怒りをあらわしていて、胸に迫ってきました。

沖縄「慰霊の日」 普天間高生が詩朗読(2010年6月23日 中日新聞)
【平和の詩全文】 
  変えてゆく   普天間高校3年 名嘉司央里

今日もまたはじまる
いつもの日常
当たり前に食事をして
当たり前に好きなことを学んで
当たり前に安心して眠りにつく
そんな普通の一日
今日もまたはじまる
いつもの日常
当たり前に基地があって
当たり前にヘリが飛んでいて
当たり前に爆弾実験が行われている
そんな普通の一日
一見「平和」に思えるこの小さな島
そこにいつの間にか当たり前ではない
当たり前であってはならないものが
入り込んでしまっていた
普通なら受け入れられない現実を
当たり前に受け入れてしまっていた
これで本当にいいのだろうか
平凡な幸せを感じながら
ただただ「平和」を望む今
簡単にこの違和感を
無視していいのだろうか
黒いたくさんの礎
刻まれるたくさんの名前
そこで思い知る
戦争が残した傷跡の大きさ深さ
何も幸せなど生まれなかった
何も手に入れたものなど無かった
すべて失ったものばかりだった
忘れてはならない
この島であった悲しい記憶
目を背けてはならない
悲しい負の遺産
それを負から正に変えてゆく
それがこの遺産を背負い生きてゆく
私達にできること
変えてゆくのは難しい
しかし一人一人が心から
負である「戦争」を忌み嫌い
正である「平和」を深く愛する
そんな世界になれば
きっと正の連鎖がはじまるはずだ
6月23日 慰霊の日
あの黒いたくさんの礎には
たくさんの人々が訪れる
そして その一つ一つの名前に触れ
涙を浮かべながら語りかける
「今年も会いに来たよ」と
手を合わせ目を瞑り祈りを捧げる
その訪れた人々に
「平和」を願わないものはいない
「一度あった事は二度ある」
そんな言葉を聞いたことがある
しかし こんな悲惨な出来事は
もう繰り返してはならない
だから…
「一度あった事は二度とない」に
変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう
その想いはきっと届いているはずだから


現地の二紙、沖縄タイムスと琉球新報のきょうの社説を紹介します。

社説:[「慰霊の日」に]悲しみと鎮魂と怒りと 
2010年6月23日 09時13分 沖縄タイムス

 梅雨が明け、灼熱(しゃくねつ)の太陽が島を焦がす。65年前の6月。鉄の暴風がこの地を吹き荒れた。
 「すでに沖縄を見捨てたのだ」
 久米島で山中を逃げながら、住民への情報伝達に当たっていた農業会会長の吉浜智改(ちかい)さん(当時59歳、享年71歳)は日記(久米島戦記)にそう記した。
 天皇臨席の最高戦争指導会議は1945年6月6日、「本土決戦方針」を決定した。国会がそれを承認したとの情報に接し、政府が沖縄戦に見切りをつけたと察した。
 「生き延びるのだ。どんなことがあっても生き延びるまで苦闘を続けるのだ。民族の滅亡があってたまるものか。国会が見捨てたからといって我々沖縄民族の全てが無意義にして無価値な犠牲になってたまるものか。自存せよ」
 山中で息をひそめる絶望の淵(ふち)にあって、気力を振り絞るように郷里への憂いをつづったのだろう。
 政府が本土決戦方針を決めたその日、太田実海軍中将は「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と大本営に打電。住民の献身的な戦闘協力と戦禍の惨状を伝え、将来沖縄の犠牲が報われるよう求めた。
 豊見城の海軍司令部壕で太田中将が自決したのは13日のことだった。その日、東京両国国技館で7日から始まった夏場所の千秋楽が行われていたのだ。日本相撲協会によると、戦災の中だけに取組は非公開だった。当時の朝日新聞に千秋楽の結果が小さく報じられている。
 吉浜さんは「大相撲大会とは何たることぞ」「国難ここに至れる」と憤る。
 沖縄で住民が生死の境をさまよっていたときに、東京では大相撲興行があるという目がくらみそうな深いギャップ。吉浜さんの日記には「捨て石」にされたことへの激しい恨みがにじむ。
 戦後も本土との深い溝は埋まらない。
 52年、日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約で沖縄は切り離され、米軍占領は戦後27年も続いた。
 「核抜き・本土並み」を宣言した72年の沖縄施政権返還にしても、沖縄の負担軽減は伴わず、むしろ本土での基地整理縮小が先行した。
 現在も「抑止力」という実体のない言葉を使い、自らは責任から逃げ続けて安保の負担を沖縄に押し付けていることに政治は無頓着だ。
 菅内閣が発足した直後の世論調査で、米軍普天間飛行場を沖縄県内で移設することに過半数が賛成している。
 菅直人首相はきょう、沖縄全戦没者追悼式に出席する。仲井真弘多知事らと面談する予定だ。菅首相は追悼訪問を県内移設に理解を求めるスタートと位置付けている。
 しかし首相の口から聞きたいのは不平等な基地偏重の理由だ。構造的な「差別」に対する県民の怒りはかつてなく高まっている。
 「見捨てられたからといって沖縄民族の全てが無価値な犠牲になってなるものか」
 吉浜さんの言葉が65年の時を越えて胸に響く。


 社説:慰霊の日/軍隊は住民を守らない 今こそ沖縄戦の教訓後世に
2010年6月23日 琉球新報

 今から65年前の1945年6月23日、アジア太平洋戦争末期に沖縄で繰り広げられた日米最後の激しい地上戦が事実上終結した。
 県援護課によると、沖縄戦の全戦没者は20万666人。日本軍9万4136人(県出身将兵2万8228人含む)に匹敵する約9万4千人の民間人が犠牲になった。
 政府はことし5月21日、沖縄戦の定義について、国内「唯一の地上戦」としていたこれまでの表現を「国内最大の地上戦」と言い換えた。
 樺太でソ連軍による避難船への攻撃や陸上での無差別攻撃により、計約3700人の民間人が死亡したとされるからだ。

■「唯一の地上戦」
 日本軍は住民に対し、米軍への投降を許さず、軍民が一体となって沖縄戦に突入した。
 住民は米軍の攻撃で犠牲になっただけでなく、自国軍によるスパイ視、壕追い出し、幼児の絞殺、強制的な死に追い込まれた。沖縄戦研究者は、民間人の犠牲者数は軍人を上回ると指摘している。
 沖縄戦とは、日本の領土で自国軍によって多数の住民が死に追いやられた唯一の地上戦と表現しても過言ではないのではないか。
 「国内最大の地上戦」という定義では、無残で残酷な実相が伝わらないのではないかと危惧(きぐ)する。
 沖縄戦から導き出された住民側の教訓として、私たちは「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝(命こそ宝)」と繰り返し主張してきた。
 一方で、国家や軍の論理からみた教訓がある。住民側から見た沖縄戦像とはまったく異なる。私たちが最も警戒すべきものだ。
 戦争を指揮する大本営は、米軍の沖縄本島上陸直後の4月2日「結局敵に占領せられ本土来寇(らいこう)は必至」(「機密戦争日誌」)と判断し首相に伝えた。日本軍の組織的戦闘が終わる直前の6月20日には「沖縄作戦の教訓」をまとめた。
 この中で、兵器を持たない沖縄召集の防衛隊員などには、急造爆雷を担がせて戦車に体当たりさせ、降雨時と夜間に斬(き)り込ませるのが有効と指摘している。生還を求めず「統帥の外道(げどう)」と言われた航空機による特攻と同じ発想だ。
 米軍は熾(し)烈な戦闘で、太平洋戦争を通じ最多の戦闘神経症患者が発生した。米軍の教訓は「部隊は2週間以上、第一線にとどめておいてはならない」というものだ。それほど激しい戦闘に住民がさらされていたことになる。
 最後にマスメディアに関する教訓がある。45年6月29日付「読売報知」は「特記すべき新聞社の奮闘」という見出しで、安倍源基内相との一問一答を掲載した。
 安倍内相は「ことに沖縄の新聞社が敵の砲爆撃下にありながら一日も休刊せず友軍の士気を鼓舞していることなども特記すべきである」と述べている。
 国家が戦争遂行のために言論の自由を奪い、新聞を統制し、戦意高揚に利用することに成功したと語っているに等しい。裏返せば真実を伝えられなかった新聞の敗北宣言である。新聞の戦争責任を忘れてはならない。

■過去に目を閉ざすな
 総務省統計局によると、沖縄に住んでいる65歳以上のお年寄りは約24万人(2009年10月1日現在)。県全体の17・4%に当たる。県人口の8割以上は、戦争を知らない世代だ。
 琉球新報が県内5大学の学生を対象にアンケート調査を実施したところ、正しい戦没者数を答えられた学生は3分の1以下だった。戦争体験者がどんどん減る今、沖縄戦とどう向き合うのか問われている。
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危機に陥りやすいのです」
 今から25年前、旧西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、ドイツの敗戦40周年を記念して行った演説の一節だ。
 菅直人首相は、慰霊の日の23日に来県し、米軍普天間飛行場の県内移設について沖縄県側と話し合う意向を示している。
 沖縄にとって6月23日は、過去と向き合い、天寿をまっとうできずに無念の死を遂げたすべての死者を追悼する大切な日だ。菅首相にヴァイツゼッカー氏が語った率直で普遍的な思いは届くだろうか。
 私たちはこれから生まれてくる命、子どもたちの未来に責任を負っている。23日は沖縄の地から世界に非戦を誓う日としたい。


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入梅の前に、バローで半額で買ってきた花木の苗木を植えました。

裏山の下に植えてあるイチジク・バナーネは大分大きくなっていて、
  
その周りを整地してもらったので、大きくなる木を並べて植えました。
   
西南側の塀の周りには、家のなかから見えるように花が咲く木。
  

いちばん大きな花カイドウの苗木は、塀の中のベニシダレモミジの西側。
 

椿や山茶花などの低木類も、ジャマにならない隙間をさがしてあちこちに。
  
タチアオイ・シジミバナ(ブライダルリース)・ピンク雪柳
  

花木の苗木を植えおわった翌日、またコメリで処分品の花苗を衝動買いしてしまいました。
いずれも50円とか100円とかで、定価の5~7割引きの超お買い得品です。
 

けど・・・植え場所、もうないなあ・・・。

 

マンデビラとアサガオは、軒にはわせて日除けにすることにしました。
花が咲くのが楽しみです。


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6月22日(火)のつぶやき

2010-06-23 01:38:02 | 花/美しいもの
14:12 from web
○【悩みのるつぼ】義理の父親がひどすぎる/親の夫婦関係は他人事と割り切れば (上野千鶴子) http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/6292799fb68439e45b64b5dbd1e01c1d
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