みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

〈社説特集〉原発ゼロ社会―いまこそ 政策の大転換を(朝日新聞)

2011-07-14 08:28:41 | 地震・原発・災害
一昨日、朝日新聞から、原発についての記事を書きたいから、と、
88年に福井県からつゆくさ風船を飛ばしたことを中心に、インタビュー取材を受けました。

翌日の朝日新聞。
一面から、目が覚めるような「脱原発」の記事。
社説のページには、〈社説特集〉として、見開きいっぱいに、「脱原発へのみちすじ」論を展開しています。

大手の新聞が、脱原発の方針で論を張る。
これは記録に残しとなきゃ、ということで、いかに紹介します。

記事は大きすぎてスキャナで取り込めないし、字数の関係で全部は載せられないので、
紙面またはwebでご覧ください。

わたしのインタビュー記事は、20日か21日に掲載の予定。
ただし、岐阜版ですけどね。

 原発ゼロ社会―いまこそ 政策の大転換を〈社説特集〉
2011年7月13日 朝日新聞

■大軒由敬(論説主幹)
 日本のエネルギー政策を大転換し、原子力発電に頼らない社会を早く実現しなければならない。
 いまだに収束が見えない福島第一原発の事故を前に、多くの国民もそう思っている。朝日新聞の世論調査では、段階的廃止への賛成が77%にのぼった。
 なにしろ「止めたくても止められない」という原子力の恐ろしさを思い知った。しかも地震の巣・日本列島の上にあり、地震が活動期に入ったといわれるのだ。再び事故を起こしたら、日本社会は立ち行かなくなってしまう。
 そこで、「原発ゼロ社会」を将来目標に定めるよう提言したい。その方策については、社説特集をオピニオン面に掲載したので、お読みいただきたい。
 脱原発を進めるポイントは、時間軸をもつことである。
 これまで電力の3割近くを原発に頼ってきた。ここで一気にゼロとすれば電力不足となり、生活や経済活動が大きな打撃を受けるだろう。過度に無理せず着実に減らしていく方が現実的であり、結局は近道にもなるはずだ。
 原発の寿命は40年がひとつの目安とされている。もう新たな原子炉は建設せずに40年で順に止めていくと、2050年にはゼロになる。これでは遅すぎるが、代替電源の開発・導入に力を入れ、節電にも努めれば、ゼロの日をそれだけ早めることができる。
 代替電源の希望の星は、風力や太陽光を始めとする自然エネルギーだ。これを増やす方向へエネルギー政策を転換し、電力会社による地域独占体制を抜本的に改めて自由化を進める。それが社説で描いたシナリオである。
 これまでは、原発増強を最優先させ、自然エネルギーを陰に陽に抑制してきた。自然エネルギー源は各地に分散していて地域密着の発電になるので、自由化による新規参入が欠かせない。需給に応じて変動する電気料金にすれば、節電を促すことにも役立つ。
 ただし、まだまだコストが高い。急激に導入すれば電気料金を押し上げ、暮らしや経済活動の重荷になる。どのていどの値上げなら受け入れ可能か。危険な原発を減らすことと天秤(てんびん)にかけ、国民的な合意をつくりつつ廃炉のテンポを決めていくことが大切だ。
 また、それまでには時間がかかるので、当面は天然ガスなどの火力発電を強化せざるをえない。二酸化炭素を出し、地球温暖化の防止にはマイナスに働くが、自然エネルギーの開発と省エネを進めていき、長期的には脱原発と両立させねばならない。それが日本の国際的な責任でもある。
 以上の努力を重ねていって、ゼロにできるのはいつか。
 技術の発展や世界の経済情勢に左右され見通すのは難しいが、20~30年後がめどになろう。
 そこで、たとえば「20年後にゼロ」という目標を思い切って掲げ、全力で取り組んでいって、数年ごとに計画を見直すことにしたらどうだろうか。
 現在は、54基ある原発のうち35基がすでに休止しており、8月までにさらに5基が検査で止まる。この状態であっても、私たち一人ひとりの節電努力でこの夏の需要最盛期を乗り切れたなら、かなりの原発はなくても大丈夫であることを証明したことになる。
 今後は安全第一で原発を選び、需給から見て必要なものしか稼働させなければ、原発はすぐ大幅に減る。ゼロへの道を歩み出すなら、再稼働へ国民の理解も得やすくなるに違いない。
 戦後の原子力研究は「平和利用」を合言葉に出発した。しかし、原発が国策になり、地域独占の電力会社と一体になって動き始めると、反対論を敵視してブレーキが利かなくなった。
 多くの国民も電力の源についてとくに考えずに、好きなだけ電気を使う生活を楽しんできた。
 原発から脱し分散型の電源を選ぶことは、エネルギー政策をお任せ型から参加型へ転換し、分権的な社会をめざすことにつながる。それは、21世紀型の持続可能な社会を築くことにも通じる。
 きょうの社説特集は「原発ゼロ社会」へ向けたデッサンにすぎない。必要なのは国民的に議論を深めながら、やれることから早く実行へ移していくことである。   



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推進から抑制へ 原子力社説の変遷〈社説特集〉〉 
2011年7月13日 朝日新聞

 原子力をめぐる朝日新聞の社説は、この60年余で大きく変わった。その検証をしてみたい。
 第2次大戦後の20年間ほどは、原子力の民生利用に希望を託す見方が世界の大勢だった。1948年2月3日社説は「原子動力化の実現する年」と題して原子力発電への期待を表明した。
 53年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「平和のための原子力」を訴える。翌54年、中曽根康弘氏らが動いて原子炉製造に向けた修正予算案が国会に出されると、3月4日社説は、学界をないがしろにする提案だと批判した。原子力推進という同じ立場ながら、どう進めるかで対立する議論だ。
 55年に原子力基本法が成立した。原子力政策は輸入炉を軸に進むが、朝日新聞は国産炉開発にこだわる。57年8月27日、茨城県東海村の原子炉に国内初の「原子の火」がともった日の社説も「記念すべき一歩」とたたえつつ、米国の技術頼みに苦言を呈した。国策を叱咤(しった)激励する日の丸原子力論である。

■転機はチェルノブイリ
 そのころは、原子力のエネルギーも制御可能であり、兵器でなく民生に用いれば恩恵をもたらすという楽観論が強かった。新しい技術が科学の悪用か否か、それだけに目が向いていたように見える。その裏返しで、技術の不確かさへの関心は低く、原子力基本法が掲げる「民主」「自主」「公開」は論じあっても、「安全」論争は盛んにならなかった。
 だが、広島と長崎の被爆の影響が長引くことがわかり始め、54年には第五福竜丸の核実験被曝(ひばく)事件もあった。50年代半ばから、科学界でも放射能のリスクや原子炉の危険を直視する動きが強まった。
 朝日新聞社説も、新しい知識や情報を取り入れ、原発の大事故が起こりうることや、それがもたらす放射能被害の怖さに、もっと早く気づくべきではなかったか。振り返っての反省だ。
 推進から抑制への変化は、79年の米スリーマイル島原発事故や86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故が起こってからだ。「安全を前提に原発を進める」という論調だったのが、原発を推進することの是非も考える議論に入っていった。88年4月26日社説は「立ち止まって原発を考えよう」と呼びかけた。

■危うさへの感度足りず
 背景に、60~70年代に深刻になった公害と、しだいに高まった環境保護思想がある。水俣病が世界に伝えられ、レイチェル・カーソン著『沈黙の春』などで、生態系を守る意識が国内にも広がった。
 原子力に批判的な社説は、朝日新聞紙面に載った「原発と人間」(86年)、「汚染大地」(90年)などの企画記事にも呼応するものだった。
 冷戦後の90年代には環境保護が国際政治の主議題となる。二酸化炭素(CO2)などによる地球温暖化の心配が高まると、原子力推進側は原発をCO2排出減の決め手と位置づける攻勢を強めた。
 これに対して、96年12月2日社説は「原発への依存ふやすな」と見出しにうたって「放射能を帯びたごみのつけが、のちのちの世代に回される」と原発の負の側面を警告した。2007年5月3日の「社説21」は、脱温暖化策を提案しながら「日本の原発依存率は現状以下に抑えていく」とした。
 09年3月16日社説は、太陽光発電の研究が次世代エレクトロニクスにもつながることなどを挙げ、原子力を柱とする科学技術政策の見直しを迫った。
 この半世紀、巨大技術の危うさがわかり、人々の科学技術観も変わった。それを感度よく、洞察力をもってつかめなかったか。反省すべき点は多い。


脱原発への道筋―高リスク炉から順次、廃炉へ〈社説特集〉〉 
2011年7月13日 朝日新聞

原発の段階的削減をどういう手順で進めるか――。
 「新たな原子炉はつくらない」「古いものは閉めていく」
 それが基本シナリオだろう。
 事故を起こした福島第一原発1号機は運転開始から40年が経つ。稼働していた原子炉では日本で3番目に古い。
 もっと古い日本原子力発電の敦賀1号機(福井県)と関西電力の美浜1号機(同)は国が10年間の延長を認めているが、いずれも活断層に近いことも考慮すれば、廃炉を急ぐべきだ。
 幸い、初期の原発は出力が小さく、40年で停止しても電力供給が大きな影響を受けるわけではない。
 福島第一の廃炉を前提に、全原発が40年で運転を停止していくと、原発の総発電能力が今より20%減るのは2021年、50%減るのは29年、最終的に原発がすべて止まるのは49年末という計算になる。
 しかし、これではあまりに遅々とした歩みである。
 まず急ぐべきは、今回の事故を教訓とした新たな安全基準や防災計画の設定だ。これは新たな原発建設に適用するのではなく、既存原発を「仕分け」する尺度となる。この基準に照らして補強が技術的に難しかったり、コストが見合わなかったりする原発は前倒しで廃炉にしていく。
 では、どのような基準が求められるのか。
 原発の設備機器や施設全体の頑強さについては、中央防災会議が進めている議論に沿って、科学的に考え得る最大級の地震による揺れと津波に備える形に一新する必要がある。
 ハード面の壁が破られたとき、被害を最小限に抑えるソフト面も重要だ。施設で同時多発的に問題が発生した場合、どうやって事態を把握し、どんな対応をとるのか。危機管理態勢を根底から練り直すことが欠かせない。
 防災対策も同様だ。これまで原発からおおむね半径10キロ以内が避難区域の対象だったが、今回は30キロを超える地域にも被害が及んでいる。範囲を広げると、居住人口や関係自治体が一気に増える。それでも避難が可能なのか、冷静に見極めなければならない。
 以上のことを考えれば、菅直人首相の要請を受けて運転を停止した中部電力の浜岡原発(静岡県)3、4、5号機は、このまま廃炉にするのが賢明だ。大地震が起きる可能性が極めて高い立地に加え、事故が発生した際の経済的、社会的影響が大きすぎる。

基準や計画が改まっても、実際の運用で骨抜きにされてきたのが、過去の原子力の歴史だった。電力会社は地質や津波などの情報を握っていながら、都合のよいものしか出さない。
 こうしたご都合主義を排除するには、専門的な立場から批判的に安全性をチェックする仕組みが不可欠だ。
 今回の事故で機能を果たせなかった原子力安全委員会は、地震学など原子力以外の専門家もメンバーに加えるとともに、原発の定期検査についても法的権限を与えて関与させる。
 原子力安全・保安院は、原発を推進してきた経済産業省から分離し、新たな原子力安全委員会の実動部隊として位置づける。米原子力規制委員会(NRC)などが参考になろう。
 こうして態勢を強化した新たな規制・監督機関が安全基準の策定や原発の運転・廃炉のチェックを担っていく。
 組織面では、原発の運営をこれまで通り電力各社に委ねるか、国営化するか、専業1社に集約するかといった点も、検討しなくてはならない。
 原発の廃止にともない、立地自治体の再生も課題となる。原発による歳入が減り、雇用が失われることへの懸念は大きい。ただ、廃炉完了までには20年から30年はかかる。その間、原発に依存しない地域づくりに、周辺自治体とともに取り組んでほしい。
 当面の問題として、定期検査を終えた原発の運転再開は、新たな安全基準に照らして、個別に判断していくことが本来の姿だ。
 経産省による6月の安全宣言は、いかにも拙速だった。新たに実施するストレステスト(耐性評価)は、菅首相の戦略のなさから大きな混乱を招いたが、安全確保の面からは必要な手順だろう。アリバイづくりのテストであってはならない。
 政府に求められるのは、原子炉の古さや活断層との距離など原発それぞれが抱える問題を精査し、リスクの大きい原発を個々に仕分けしていく作業である。少なくとも、40年を経過した原発の再稼働は認めるべきではない。
 そのうえで、相当程度の安全が確保された原発は、地元の十分な理解を得て再稼働させていくのが筋道だ。
 こうした課題をこなしながら脱原発を進めるには、移行期のエネルギーが重要になる。自然エネルギーが普及するには、まだ時間がかかるからだ。
 期待されるのは天然ガスである。二酸化炭素は出るものの、最近の発電技術の革新で、排出量は石炭の4割程度まで減ったといわれる。
 家庭やビルごとに発電できるうえ、排熱は給湯などに利用できる。熱を捨てるしかない原発に比べると、無駄が少ない。米国で地下の深い岩層に含まれるシェールガスの採掘が可能になったほか、ロシアやオーストラリアで大規模開発が進むなど、供給の安定性が高まっているのも強みだ。
 原発か、自然エネルギーか、という二者択一では、結果的に脱原発が進まない。さまざまなエネルギー源への目配りが必要だろう。
 政治的な回路という視点も大事だ。
 ドイツの脱原発の背景には、緑の党などの環境政党が1986年のチェルノブイリ事故を契機とした反原発の民意をくみ上げてきた歴史がある。
 ところが、日本では原発立地への反対運動があり、やはりチェルノブイリ事故の衝撃がありながら、ついぞ政治的な争点にはならないままだった。
 今回の事故で、日本の政界にも原発見直しの動きが出てきた。次の総選挙までに、脱原発の道筋をきちんと構築して提示してもらいたい。  


廃棄物の処理―核燃料サイクルは撤退〈社説特集〉〉 
2011年7月13日 朝日新聞

 日本初の商業用原発、東海原発(茨城県)が1966年に営業運転を開始して以降、日本は大量の使用済み核燃料を生み出し、ため続けてきた。
 今後、脱原発を進めても、稼働している原発があるかぎり、「高レベル放射性廃棄物」である使用済み燃料は出続ける。これらをどう始末するか。
 廃棄物処理に大きく関係するのが核燃料サイクル政策だ。使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、高速増殖炉(FBR)でまた燃料として使う仕組みである。
 ところが、その要となる二つの施設は巨額の費用を投じながら、見通しが立っていない。
 六ケ所再処理工場(青森県)はもともと97年に運転開始の計画だったが、いまなお試運転段階だ。工程のトラブルが起き、何度も止まっている。FBR原型炉「もんじゅ」(福井県)は、95年のナトリウム漏れ事故以来、ほとんど稼働していない。
 再処理が進まないため、六ケ所では各地の原発から受け入れている使用済み燃料の貯蔵スペースが満杯に近づいている。そのあおりで、使用済み燃料は全国の原発内にあるプールに留め置かれ、すでにプール総容量の7割が埋まっている。
 日本の原子力政策の中でも、核燃料サイクルは特に経済性や核不拡散の点から問題になってきた。2005年に現行の原子力政策大綱が策定される際の議論では、核燃料サイクルは、使用済み燃料を処理せずに埋設する方法より、割高だという試算が示された。
 それでも政策を継続したのは、「路線を変更すると過去の投資が無駄になり、新たな研究も必要。立地地域との信頼も崩れる」という理由だった。
 しかし、原発ゼロを目指せば、「50年ごろまでにFBRを実用化する」という核燃料サイクル計画は続ける意味合いもなくなる。撤退するしかない。
 六ケ所再処理工場は、プルトニウムの抽出とともに、使用済み燃料の減量化を行う役割も負っている。だが、原発が減り、FBR時代はこないという前提で方針を転換するしかない。
 プルトニウム利用をやめれば日本の核不拡散外交を強めるカードにもなる。また、再処理のために電力各社が積み立てている2兆4千億円を超える資金や、停止中でさえ1日5千万円かかるもんじゅの維持経費にも、他の使い道が出てくる。
 今まで国策として動いてきた核燃料サイクル政策を変えることで、施設を受け入れてきた地元の反発など、さまざまな問題が出るだろうが、解決する道を探りたい。
 ただ、核燃料サイクルをやめても、放射性廃棄物を処分する場所がないことに変わりはない。
 日本をはじめ原発をもつ国々の多くは、こうした「原発のゴミ」は地下深くに埋めて、人間社会から隔離した状態で管理する方針を打ち出している。しかし、処分場の場所を決められたのは北欧ぐらいしかない。
 原発のゴミの始末は、原発の電気を使ってきたわれわれの世代が責任をもって取り組むべき仕事だ。
 経済協力開発機構(OECD)原子力機関も95年、原発のゴミの後始末を「いまの世代の責任」だとする原則を打ち出した。次世代に丸投げしてはならない。少なくとも国内で処理する道筋はつけなければならない。
 原発を造ることではなく、廃棄物の処理に情熱を燃やし、世界をリードする。そんな原子力技術者を育てていくことも必要だ。  


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