今月は詩吟の行事がめじろ押しになっている。きのうは上山の萱平にある山形岳風会の吟魂碑の清掃があった。50名ほどの吟友が雑草をとって碑の前の広場を清掃した。今月の20日には、山形地区本部の吟詠大会があり、その構成吟の練習に忙しい。
さて、市河寛斎が亡くなったのは遠く文政3年7月10日のことであった。寛斎は漢詩人として知られ、「晩秋舟行」は岳風会の吟題に採用されている。
晴江秋静かにして遠く天をひたす
岸をさしはさみて霜楓晩煙に焼く
漁唱樵歌都(すべ)て去り尽くし
詩を思いて人は在り夕陽の舟に
寛斎は詩人であるばかりではなく、林正良の門に入り朱子学を学び、昌平黌の学員長となって講じた。だが、人生の絶頂期に寛政の異学の禁に触れるところとなって、聖堂を追われることになった。この生活の変化が、詩風の変化を生んでいった。詩の門下生に大窪詩仏、菊池五山、柏如亭などがいる。