常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

渇きの代価

2013年07月23日 | 日記


昨日の大雨で田に引く水路があふれるように水が踊っていた。旱魃でダムの水が干上がったという報道も、この大水で吹き飛ばされたような感である。だが水のありがたみを語る奇談がある。19世紀末のエジプト砂漠での話である。

エジプト砂漠を駱駝に荷を積んだ隊商が通っていた。そこへ突如、砂丘のかげから盗賊団が現われ、キャラバンの隊員は皆殺しにされ、物資も金も全部盗られてしまった。ところが、奇跡的に隊長のハメッドと駱駝飼育係のハッキャという貧しい男の二人だけが奇跡的に助かった。彼らは、その時たまたま、本隊からすこし離れたところを歩いていたからだった。

さて二人は助かったはいいが、駱駝もなく、砂漠のまんなかに放り出されのだから、ここで生きのびるのは並大抵のことではない。水筒に残った水をチビチビと舐めるようにして口を潤していたが、やがてその水も尽きようとしていた。一番近いオアシスまで15キロ、この時点でハメッドは水筒の水を全部飲んでしまった。ハッキャの水筒にはあと一口分だけの水が残っていた。一方は金持ち、一方は貧乏人。ハッキャにとっては、この一口の水は商品であった。ハメッドの腰には500万円のフランス金貨がぶら下がっていた。

ハッキャは水と金貨を交換しようと申し出る。ハメッドは渇きに耐えかねていたからこの申し出を受け入れた。ハッキャはビジネス精神に富んだ人間であったから、500万円と水筒の水を交換する契約書も要求した。ハメッドはこの条件も受け入れ契約書を作って署名した。ハメッドは史上最高の高値というべき一口の水を飲み干すと二人はオアシスを目指して出発した。あと300メートル、彼らはオアシスが望見できる地点にたどりついた。だが、そこで二人は力尽き、脱水症状は極限に達して倒れこみそのまま死んでしまった。

二人の遺体は程なく発見されたが、ここで交された契約書が威力を発揮した。ハッキャの遺族はこの契約書に基づいて金貨を手に入れることができた。こんな奇談の存在をよそに、いまエジプトでは危機的な状況に苛まれている。エジプト軍によるクーデターの混乱は、暫定政権ができたものの、出口もみえないまま今日も続いている。
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頼杏坪

2013年07月23日 | 


天保5年7月23日、頼杏坪が79歳で没した。頼春水、春風、杏坪3人兄弟の一番下の弟で、頼山陽の叔父である。杏坪は儒者であった。兄春水とともに藩学の振興に力を尽くした。兄に代わって藩世子の侍読となり、その学識を遺憾なく発揮した。また学者として知られたばかりでなく、立派な行政官であったことも記憶にとどめなければならない。

杏坪は代官として、三次、江蘇の二郡に勤めた。既に老境に至っていたが、村役人を戒めて賄賂を禁じ、上下一体になって地方の改良に務めることを説いた。曲を罰し、直を賞し、農村に多い山や水の争いを裁き、産業を奨励して馬を飼い、柿栗などを植え、また忠臣義士を祭り、養老会を開き、若者への教育に熱心であった。このような代官の姿に、村民も目覚め村民の生活も一変して豊かになった。

田能村竹田は随筆に杏坪について
「年72神明衰へず、声容ますます壮なり。毎暁寅の時に盥嗽して端座し、辰の時までにその日の公私の事務を計画し、その後に飯してそれより終日出勤し、役務を取りさばき少しも倦むことなし。且つその暇にも詩を作り歌を詠じ、一日十数種に下らざるといふ」と書いた。ここに漢詩一詩を記す。

 江都客裡雑詩 頼杏坪

八百八街宵月明かなり

秋風処処に虫声を売る

貴人は解せず籠間の語

総て是れ西郊風露の情

杏坪は虫の声を借りて、役人が本当の庶民の性情や苦しみを解していないことへの批判を試みた。こんな能吏が、江戸期の日本の支えであった。
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