常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

老いの将に至らんとするを知らず

2014年10月20日 | 論語


平均寿命になるまでまだ長い時間があると、最近まで思っていた。ふと考えてみると、あと6年である。孔子の言った、「老いの将に至らんとすると知らず」などという心境ではない。やりたいことをできないまま、時間だけが超スピードで過ぎていく。そんな老年の生活のなかで、孔子の言葉はこれからの生き方に強い示唆を与えてくれる。

孔子の晩年のことである。楚の国の名臣である葉公を任地に訪ねたおり、弟子の子路に孔子の人となりを聞いた。子路は何と言ってよいか分からず、答えられなかった。そのことを孔子に話したところ、「何故こう言わなかったのだ」と言って自らの人柄を語った。

「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんするを知らざるのみ」こう答えればよかったのだよ。

憤りをどう解釈するべきか、疑問がのこるが、孔子は国をいかに統治するべきかを考え続けた学者であったから、憤りはこの問題に関してもののように思える。精神が高揚してくると、食べることも忘れて熱中し、楽しいことがあると心配事も忘れてそのことに没頭する。老いがその身に近づいてくることにも気づかぬ様子の人だ。

みずみずしく清新な心、日々学ばんとする情熱、物事に対する関心と感激、自己感性への孜々とした努力。孔子はこのような若々しい心を終生持ち続けた。

サムエル・ウルマンの詩にもある。

真の青春とは

若き肉体のなかにあるのではなく

若き精神のなかにこそある

このような、心を持ち続けられるならば、6年という時間は図り知れない長さを持つことができるだろう。

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