先日、山形岳風会の「詩吟まつり」で来賓の先生が、挨拶のなかで濫觴という言葉を使った。続けてすぐに、つまり「ことの始り」という意味でと、その言葉を解説していた。濫觴という言葉は、もうあまり使われていないため、単独に使っては意味が通じないきらいがある。すでに死語で、テレビの国語クイズにでも出てきそうな言葉なのだ。
漢字からこの言葉を分析してみる。濫とは氾濫のことで、川から水が溢れ出すという意味を持っている。一方の觴の方は、漢和辞典をひくと、さかずきとある。酒盃の総称とも記されている。想像するに、動物の角を杯として用いたことがあったのではないだろうか。だが濫觴がさかずきから溢れる水とすると、ことの始りとどうつながるのか理解に苦しむ。さらに想像力を働かせると、川の源、水源はどうか。滔滔と流れる大河も、その源をたどれば水はさかずきから溢れるほどしかない。大河の始り、これが濫觴の意味であるのではないか。
孔子が弟子の子路を諭した話がある。あるとき、子路が着飾って孔子を訪ねた。それを見た孔子は機嫌を損ない、「なんだそのけばかばしい服は」と叱り、言葉を続けた。「揚子江は岷山を源としているが、そのはじまりの水源はさかずきに溢れるほどしかない水量だ。ところが、下流の渡し場になると何艘も船をならべて、風を避けなれば渡られないほどになる。下流では水量が多くて人々は警戒するのだ。お前は着飾って得意そうにしているが、それでは人は警戒して、お前に諌めようとしなくなる。」これを聞いた子路は、走り去り、質素な服に改めた。
因みに私がこの言葉にはじめて出会ったのは、高校国語の試験問題であった。たしかその折は正解したが、以後久しくこの言葉に出会うことはなかった。
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