常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2014年10月05日 | 日記


栗の木は意外に多い。栽培したものではないが、畑の隅や山に自生する芝栗など、この季節に戸外に出るとよく目にする。北海道の生家には、栗の木が5本ほどあって、朝目が覚めると栗を拾いに蒲団を飛び出したものだ。なかにまだ皮に白身を残した未成熟の実が混じっている。これを齧って皮を剥くと、渋皮まだ柔らかく歯で簡単にとれる。そのまま噛むと、ほんのり甘い栗の味が口に広がり、何よりの好物であった。

栗の木は大きく枝を広げ、夏日蔭を作ってくれる絶好の場所であった。栗の木の下に莚を敷き、そよ風に吹かれながら昼寝をするのが何よりの贅沢であった。兄弟は10人もいたのだが、年齢が離れると兄弟であってもあまり話すこともない。今では考えられないような家族構成であったが、そのなかで孤独を愛しながら成長してきた気がする。家にいるときは何も感じない兄弟たちであったが、後年独立して生計を立てると訪ねてきた。久しぶりの再会に、特に姉たちは涙を流して懐かしがった。去来したのは栗の木の記憶である。

15年ほど前、妻の知り合いが山間の栗畑のある畑を買った。栗が実る頃、呼ばれて栗林に遊びに行った。弁当を携えて栗の木下で談笑していると、風に吹かれて栗の実がぽたん、ぽたんと落ちてきた。2時間もすると、手かごにいっぱいの栗の土産ができた。その栗をそのまま放置しておくと、栗玉虫に食われてしまうから水に晒すということもその時に教わった。

栗飯のあとのまどゐを長くせり 荒井 正隆

山には自生した芝栗が山道に落ちている。この栗を拾うのはどういうわけか女性が多い。芝栗を栗ご飯にすると、本当のおいしいのよ、といいながら毬を剥いて栗を拾っている。

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