寂蓮法師は、藤原俊成の弟で醍醐寺の阿闍梨俊海の子である。十四歳のとき、俊成の養子となり、その後出家して寂蓮法師となった。藤原定家とは、兄弟ということになる。一説には、俊成が歌の家の跡継ぎにしようとしたが、その後実子に定家などの歌人が出て、跡継ぎには実子にというので出家したという話もある。
さびしさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師
歌のなかにある槇は杉や檜の針葉樹のことである。意味は、「さびしさは、色のせいとはいえない。紅葉しない針葉樹林の秋の暮れのさびしさは」と読むことができる。
西行法師も秋の暮れを詠んでいる。
心なき身にもあわれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ 西行法師
寂蓮の弟にあたる定家の秋の夕暮れは
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
この三首が「三夕の歌」である。それぞれ、山、沢、浦と異なる景色のなかの秋の夕暮れである。誰もが愛でる紅葉からは離れた秋の淋しさを詠んでいる。
出家した寂蓮法師は、その真髄を究めようとして、歌の道に分け入った。執着したと言えるかも知れない。ある人が語ったところによると、
「くたびれて口が合わなくなり、小便の色も変わってこそ秀歌はできる」と言っていたという逸話があるし、女流歌人である宮内卿が歌に執着して病死したことに感心し、それに引きかえ兄が歌に身を入れないことを嘆いたという。この時代の歌人は、自らの命をかけて歌を追求した。
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