山形の地形は奥羽山脈によって、囲まれている盆地である。その中央を貫流する最上川が、人体の血管のような役割を果した。日本海航路によって、上方や北海道から入ってくる物資や文化はこの血管を通って、山形の内陸部へと送り込まれた。福島や宮城へ通るには、参勤交代に使った陸路がかろうじて確保されていたが、どの道も険しい峠道を通らねばならなかった。そのため、大量の物資、特にこの地域で取れる米、紅花、果物などは舟運によってしか、交易する交通手段が近代に至るまでなかった。
事態が変わるのは、明治9年に山形県初代県令に三島通庸が就任してからである。三島は明治15年に福島県令に転出するまで、6年間、山形県令として腕をふるった。後進県といわれた山形県に殖産興産の事業は多岐を極め、県庁舎、西田川郡郡役所、警察署、師範学校、製糸工場、済生館病院、などの勧業施設を次々と建設し、それらの施設を結ぶ幹線道路の整備にまい進した。なかでも目を引く大事業は、奥羽山脈の栗子山を貫く栗子隧道は、車馬がトンネルを通って、米沢から福島へ抜ける画期的なものであった。人々は三島を土木県令と呼んだ。それほど、就任6年間に手がけた工事は多い。
画家の高橋由一は、三島に請われて、栗子隧道の図を描き残している。
絵はトンネルの内側から、外をみたものであるが、現在残っている隧道は半ば崩れ、道路には草が伸びて絵の雰囲気は失われしまった。しかし、砕石場のところから残る廃道となった万世大路をたどれば、当時の人々が道路をどのように利用していたかが偲ぶことができる。この隧道の脇には、昭和41年まで使用していた旧栗子トンネルも形骸を残している。
このトンネルは、同行した山中の二人の方が、このトンネルと通って仕事をしていたことを語っていた。このトンネルに来るまでの道は狭いヘアピンカーブが連続してしている。明治に人馬の通る道として整備されたものが、モータリゼーションの時代にも、長く使用されたきた。トンネルの内部は所々に崩落が起き、もう入ることはできない。
このトンネルの福島県側にも、廃道になった道がある。当然のことだが訪ねてその模様もネットで語られている。そちら側は、山形県側よりも薮が深く険しい様子である。
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